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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第二十三章 異様な囚人

 ズリタは約束通り、イフチアンドルの手錠をのこぎりで切ってやった。そして彼に新しい背広を着せた。しかしイフチアンドルが、砂に埋めてあった手袋と水中眼鏡を回収して、メドゥーサ号の甲板に戻ってくると、ズリタはインディオの船員たちに命じて、彼を船倉に閉じ込めてしまった。
 そして食料を買い込むためにブエノスアイレス近郊に行き、バルタザールの店に寄って自分の成功を自慢した。
 さらにリオデジャネイロに向かって海岸沿いに移動した。彼は南アメリカの東海岸を回り込んでカリブ海で真珠を探し始めるつもりでいた。
 グッチエーレは、船長室にいた。彼女はズリタに、イフチアンドルは、リオ・デ・ラ・プラタ湾で解放したと聞かされていた。しかし、それはすぐに嘘であることを知った。
 夕方になると、イフチアンドルの叫び声やうめき声が、船倉からかすかに漏れて聞こえてきたからだ。
 それは確かに、イフチアンドルの声だった。グッチエーレは、甲板にいるズリタを問い詰めるために船長室を出ようとしたが、初めて船長室の扉に外から鍵が掛けられていることを知った。
 彼女は扉を叩き叫んだが、それに応える者はいなかった。
 ズリタも、イフチアンドルの叫び声を耳にした。彼はひどく罵りながら、インディオたちと共に、船倉に向かった。船倉はひどく息苦しく、そして暗かった。
「何を叫んでやがるんだ?」
「僕は窒息しかけてるんです」と、イフチアンドルは答えた。「僕は水がないと生きていられません。ここはとても息苦しいんです。僕を海に放してくれないと、夜の間に死んでしまいます……」
 ズリタは船倉のハッチを、叩きつけるように閉めて甲板に出た。
(本当にヤツは窒息しかけてるのか?)と、ズリタは心配した。もしイフチアンドルが死んでしまったら、全て水の泡だ。
 彼は船員たちに、樽を船倉に運び海水で満たすよう、命令した。
「ほら、お前の風呂だ」と、ズリタはイフチアンドルに言った。「入れ! 明日の朝になったら、海に入れてやる」
 イフチアンドルは、急いで樽に入った。樽に頭まで潜り込む。
 樽の中では泳ぐこともできず、背筋を伸ばすこともできなかった。水に浸かるには、前かがみになる必要があった。樽は塩漬け肉が入っていたものだったので、水はすぐに肉くさくなった。それでもイフチアンドルにとっては、息苦しい船倉にいるより、まだしもましだった。
 船倉の入り口で船員たちが、ひどく戸惑いながら、この水浴びを眺めていた。彼らはまだ、メドゥーサ号の捕虜が、海の悪魔であることを、知らなかった。
「甲板へ行け!」と、ズリタは船員たちに向かって叫んだ。
 メドゥーサ号は、海上を吹く南東の風を受けて、順調に北へ向かい始めた。
 ズリタは、長い間艦橋にいて、夜明けが近づいたころ船長室に向かった。
 彼は、妻はもう眠っているだろうと思っていたけれど、彼が見たのは、椅子に座り、テーブルに頬杖をついている妻の姿だった。
 ズリタが部屋に入ると、グッチエーレは立ち上がった。天井から吊るされた消えかけたランプの弱い光の中でも、彼女が青白い顔でしかめっ面をしていることがわかる。
 彼女は静かに言う。
「私を騙したのね」
 ズリタは、怒りに燃える妻の視線に射すくめられて、居心地が悪くなる。その動揺を隠すため、口髭をひねりながら、冗談めかしてこう答える。
「イフチアンドルは、お前と離れたくなくてメドゥーサ号に残りたいと言ったんだよ」
「あなたは嘘つきよ! あなたは卑しくて下劣な男だわ。あなたなんか大嫌い!」
 突然グッチエーレは、壁に掛けられていた大きなナイフをひったくり、ズリタに向かって振りかざす。
「うわっ!……」ズリタは叫びながらグッチエーレの手を素早くつかむ。あまりに強く握り絞められて、グッチエーレはナイフを落とす。
 ズリタはナイフを船長室から蹴り出してから、妻の手を離した。
「こんなことをするより、いいことがある! お前はずいぶん興奮しているようだから、水差しの水を飲んで、落ち着くんだ」
 そして彼は部屋から出て扉に鍵を掛けると、上甲板に出る。
 東の空には、すでに水平線の上に太陽が姿を現し、明るい桃色に染まった雲が、舌のように見えた。帆も、新鮮な潮風で満たされている。海面をカモメが、目を皿にして魚を探しながら飛んでいる。
 もう朝だ。
 ズリタは、手を後ろに組んで甲板を歩き回った。
「なに、なんとかするさ」と、グッチエーレのことを考えながら言った。
 そして大声で、帆を降ろせと船員に命令した。メドゥーサ号は錨を下ろし、波に揺られ始める。
「鎖を持って来い。そして貨物室のヤツを連れて来い」
 ズリタは、一刻も早くイフチアンドルに真珠を集めさせてみたかった。
(それに、ヤツの体調も海で回復するだろうさ)とも考えた。
 二人の船員に連行されてきたイフチアンドルは、疲れきっているように見えた。彼は、あたりを見回す。後方マストの傍で、そこから数歩の所に船縁がある。彼はいきなり海に飛び込もうと走り出した。しかし、海に飛び込む寸前に、頭に強烈なズリタの拳の一撃を喰らい、意識を失って甲板に崩れ落ちた。
「慌てる者は貰いが少ないってな」と、ズリタは教訓を垂れる。
 ガチャガチャと、船員が端に輪のついた、細くて長い鎖を持ってきて、ズリタに渡した。
 ズリタはその輪を、意識のないイフチアンドルに巻きつけて鍵を掛けると、船員に命令する。
「こいつの頭に水をかけろ」
 イフチアンドルは、すぐに意識を取り戻し、そして自分にしっかりと巻きつけられた鎖を見て戸惑った。
「そうとも。お前は俺から逃げられやしない」と、ズリタは言った。「今からお前を、海に放してやる。真珠貝を採って来い。お前が働いている間は、海の中にいさせてやる。しかし真珠貝を採って来ないなら、また船倉の樽に逆戻りだ。いいか? わかったな?」
 イフチアンドルはうなずいた。今すぐ澄んだ海水に飛び込めるなら、世界の全ての宝物をズリタに差し出すことになろうが、かまわないと思った。
 ズリタと鎖に繋がれたイフチアンドル、そして船員たちは、グッチエーレがいる部屋の反対側の船縁に向かった。ズリタは、鎖に繋いだイフチアンドルを、彼女に見せたくはなかったからだ。
 イフチアンドルは、鎖につながれたまま、海に落とされた。(この鎖を引きちぎることができたなら!)
 しかし、鎖はとても頑丈だったので、彼はその考えをあきらめた。そして真珠貝を集め、脇にぶら下げた大きな袋の中に、入れ始めた。
 鉄の輪が脇腹を圧迫し、息が苦しかった。けれど、息苦しい船倉と、悪臭を放つ樽よりは、ずっと良い。
 一方、船の上では船員たちが、この驚くべき光景に息を呑んでいた。何分も経過しているのに、海底に沈んだ男は、上がってくる気配さえない。最初海面に出ていた泡も、すでに消えてしまっている。
「もし、あいつが空気を求めて喘いでいるんなら、とっくにサメがやってきて喰っちまってるはずだ。まるであいつは、水の中の魚みてぇじゃないか」平気な様子で海底を這いまわっているイフチアンドルを、船の上から夢中になって見ていたベテランの真珠採りが、言った。
「もしかすると、あいつは海の悪魔なんじゃないか?」と、船員は囁いた。
「あいつが誰だろうと、ズリタ船長はいい拾い物をしたもんさ」そう言ったのは、航海士だ。「あいつ一人いさえすれば、真珠採り十二人がいらなくならぁ」
 太陽が頭上にくるころ、イフチアンドルは鎖を引っ張って合図した。袋が貝で一杯になり、これ以上もう入らなくなったからだ。
 袋が引き上げられると、この奇妙な真珠採りの成果を見ようと、船員たちは甲板に集まった。
 普段なら、真珠を取り出しやすくするために、真珠貝を数日腐らせる。しかし今はズリタも船員たちも、気が急いて待ってはいられなかった。そしてみんなで、ナイフを使って殻をこじ開け始めた。
 船員たちが仕事を終えた時、異様な興奮が甲板を包み、誰も彼もが騒いでいた。
 イフチアンドルが場所に恵まれたということもあるだろう。しかし、この一回の成果は、あらゆる期待を超えていた。素晴らしく大粒で形もよく、そして最高の色艶の真珠が二十もあったのだ。最初の一度で、すでにズリタは国を得たも同然だった。この真珠のたった一つで、性能のいい新造船を買うことができる。ズリタは金持ちになろうとしている。彼の夢は叶ったのだ。
 しかしズリタは、船員たちが自分と同じ欲の目で、真珠を見ているのに気がついた。気に食わない兆候だ。急いで真珠を麦藁帽子に投げ込むと、こう言った。
「さぁ、朝飯の時間だぞ。しかしイフチアンドル、お前は優秀な真珠採りだ。もっといい部屋に移してやる。そこなら息苦しくはないだろう。それから大きな亜鉛の水槽を注文してやる。そしたらお前は毎日海に入らなくてもすむからな。しかし鎖ははずさんぞ。でないとお前はカニのように潜ったまま、戻るはずがないからな」
 イフチアンドルは、ズリタと話したくなどなかった。しかし、この業突張りの囚人でいるしかないなら、生活環境については言わなければならなかった。
「水槽は、臭い樽よりずっといいけど」と、イフチアンドルはズリタに言った。「結局それじゃ息ができないんです。しょっちゅう水を変えてくれないと」
「どのぐらいの頻度でだ?」と、ズリタは質問した。
「半時間以内に一度。常に水が入れ替わってるなら、もっといいんだけど」
「なんだと。ちょいと褒められたからと、図に乗るつもりか」
「思いつきで言ってるんじゃありません」と、イフチアンドルは腹を立てた。「バケツの中に大きな魚を入れたままにしておいたら、すぐ死んでしまうことを、知ってますよね。魚だって水中の酸素を呼吸しているんです。そして僕は……、とても大きな魚と同じなんです」そう言ってイフチアンドルは、気弱げに微笑んだ。
「酸素がどうとかなんぞ知らんな……。だが確かに水を交換しなけりゃ、魚は死ぬ。たぶん、お前にはそれが必要なんだろう。だがお前の水槽に水をくみ上げるヤツを雇うのは、金がかかりすぎる。真珠よりずっと高くつく。俺は大赤字だ!」
 イフチアンドルは、真珠の価値も、ズリタが真珠採りや船員たちに、わずかしか金を払っていないことも、知らなかった。彼はズリタの言葉を鵜呑みして、こう叫んだ。
「なら僕を海に放せばいいじゃありませんか!」
 そして羨望の眼差しで海を見た。
「何様のつもりだ!」ズリタは声高に笑い始めた。
「お願いです! そうしてくれたら僕の真珠を全部あげます。僕は以前から、真珠を集めているんです」そしてイフチアンドルは、甲板から膝ぐらいの高さを示して見せた。「すべすべで、まん丸で、どれも豆ぐらいの大きさの真珠が、このぐらいあります……。あなたが僕を放してくれたら、全部あなたにあげます」
 ズリタは息を呑んだ。そして「でまかせを言うな!」と、冷たく言い放った。
「嘘なんか一度だって言ったことありません」と、イフチアンドルは怒り出した。
「ならお前の宝物は、どこにあるんだ?」と、ズリタは興奮を隠しきれなくなりながら、そう聞いた。
「海の中の洞窟に。けれど、リーディングの他には、誰もそこを知りません」
「リーディングってのは誰だ?」
「イルカです」
「あぁ、なるほどね!」
(そうか!)と、ズリタは思った。(これは妄想かもしれん。しかしもしこの話が本当なら、俺は想像をはるかに超えた金持ちになれるぞ。ロスチャイルドやロックフェラーが貧乏人に見えるような金持ちにだ。こいつの話は信用できる。こいつを海に放してやれば?)
 しかしズリタは、計算高かった。彼は人の言葉をそのまま受け入れることに、慣れていなかった。そしてズリタは、イフチアンドルの宝物を手に入れる最善の方法を考え始めた。(イフチアンドルは、グッチエーレの頼みとあれば、間違いなく宝物を持ってくるだろう)
「なら、放してやってもいいな」と、ズリタは言った。「しかしお前はまだ、俺の手元にいてもらう。俺がお前を捕まえておいて悪い理由は、何もないんだからな。だが俺のところにいる間は、不本意ながら客として扱ってやろうじゃないか。居心地もよくしてやる。ひどく高くつくだろうが、水槽より鉄の檻がいいだろう。水中の檻は、海の中でお前を鮫から護ってくれるぞ」
「でも、僕は水と同じぐらい、空気も呼吸しなければならないんです」
「なぁに、ときどきお前ごと引き上げてやるさ。その方が水槽に水を入れるより安くつくかもしれんしな。俺にまかせとけ。お前を満足させてやる」
 ズリタは上機嫌だった。船員たちには朝食にウォッカを振る舞うという、前例のないことすらした。
 イフチアンドルは船倉に戻されたけれど、水槽はまだ準備できていなかった。
 ズリタは興奮したまま船長室の扉を開けると、その場でグッチエーレに真珠でいっぱいの帽子を見せた。
「俺は約束を守るぞ」と彼は微笑んで見せた。「俺の愛しの妻は、真珠のプレゼントが大好きだ。そして沢山の真珠を手に入れるためには、いい真珠採りが必要だ。だから俺は、イフチアンドルを捕まえた。見ろよ、これが今朝一回の稼ぎなんだぞ」
 真珠を一目見たグッチエーレは、驚きを隠しきれずに息を呑み、それに気づいたズリタは、満足げに笑い始めた。
「お前はアルゼンチンで一番の、いやアメリカで一番金持ちの女になるぞ。なんだって手に入る。俺はお前に、王さまだってうらやむような宮殿を建ててやる。まずその手始めに、この真珠の半分を今お前にプレゼントしようじゃないか」
「いいえ! 私はそんな、罪によって得た真珠なんて一つだって欲しくはないわ!」と、グッチエーレはきっぱりと言い放った。「そして私を、放っておいて」
 ズリタは困惑し、そして苛立った。こんなことになるとは思っていなかった。
「なら、二つだけ。あなたは俺に望んでいることがあるはずだ。お前は俺に、イフチアンドルを放して欲しがっているだろう?」ズリタは話の重要性を強調するために、グッチエーレを『あなた』と呼んだ。
 グッチエーレは、彼がどんな悪事をたくらんでいるのかと、疑いの眼差しでズリタを見た。
「どういうこと」と、彼女は冷たく言った。
「あなたの手に、イフチアンドルの運命は握られている。お前が頼めば、イフチアンドルは、海のどこかに貯め込んだ真珠を、メドゥーサ号に持ってくる。そうしたら俺は、海の悪魔を自由にしよう」
「私の言うことを、よく胸に刻むのね。私はあなたの言葉を、一つだって真に受けやしないわ。あなたは真珠を手に入れたら、イフチアンドルをまた鎖に繋ぐに決まってる。私は嘘つきで不誠実な男の妻かもしれないけど、あなたの犯罪を手伝うつもりは一切ないってことを、絶対に忘れないでちょうだい。わかったらもう一度言うわ。私を放っておいて」
 これ以上話し合うことは何もなく、ズリタは部屋を出た。そして船室で慎重に真珠を袋に移し、それを箱に仕舞い込んで鍵をかけると、甲板に向かった。
 彼は妻とのいさかいを、それほど悲観していなかった。そして艦橋で葉巻に火をつけた。大金持ちになって賞賛する人々に取り囲まれる様子を夢想するのは、楽しくてならなかった。
 いつもは油断を怠らない彼ではあったが、その日ばかりは船員たちが集まり何か囁きあっていることに、気づいていなかった。

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