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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2003.10.30
2005.1.15
2020.06.05
2023.10 最終更新日

第四章   サルバトール博士

 ズリタは宣言通り実行した。
 彼は入り江の底にいくつも金網を張り、四方八方に綱を伸ばし、罠を仕掛けた。しかし掛かるのは魚ばかりで、海の悪魔は地に潜ったかのようだった。ヤツは二度と姿を見せなかったし、ヤツの気配も一切無い。
 例のイルカも、毎日入り江にやってきて、奇妙な友人を散歩にさそうかのように潜ったり鼻をならしたりしていた。しかし友人は現れず、イルカは最後に怒って潮を噴くと、入り江の外に泳ぎ去った。
 天気が悪くなってきた。東風が波を立て、入り江の底から舞い上がった砂で海が濁り、泡だった波も海底を隠してしまう。もう誰も海の中を見ることができなかった。
 ズリタは海岸に立って、何時間も押し寄せる波を眺めていた。巨大な波が次々やってきて、音を立てて滝のように流れ落ち、その下では湿った砂の上を、さらに音を立てながら小石や貝殻をひっくり返しつつ、ズリタの足下に押し寄せた。
「これじゃあダメだ」と、ズリタは言った。何か別の方法を考える必要があった。悪魔は海の底にいて、隠れ家から出てこない。なら、ヤツを捕まえるには、ヤツのところへ行かなければならない。そうだ!
 そして新しく精巧な罠を作っているバルタザールに向かって、ズリタは言った。
「すぐにブエノスアイレスへ行って、酸素ボンベのついた潜水具を2つ手配してこい。空気を送り込むホースがついている普通のヤツじゃないぞ。海の悪魔はホースを切っちまうからな。それに、ちょっとばかり水中を探索しなけりゃならんかもしれん。あと水中ランプも忘れちゃならん」
「悪魔に会いに行きたいってんですか?」と、バルタザール。
「もちろん、じじい、お前と一緒にだ」
 バルタザールはうなずき、出発した。そして潜水具とランプだけでなく、複雑に曲がりくねった青銅のナイフを手に入れてきた。
「こういう物は、もう今じゃ作り方もわかりませんが」と、バルタザールはそれをズリタに見せた。「こいつはアラウカンの古代のナイフでさぁ。俺のひいじいさまが、白人のあんたのひいじいさまの腹をかっさばいたかもしれませんが、あんたを裏切りゃしませんよ」
 ズリタは、いわれについては気に入らなかったが、ナイフを認めた。
「お前は実に用心深いな。バルタザール」
 翌日夜が明けると、波は高かったが、ズリタとバルタザールは潜水服を着て海に潜った。そして水中洞窟の入り口に仕掛けた網を苦労してどかして、狭いトンネルに潜り込んだ。
 周囲は真っ暗だった。やがて彼らは立ち上がり、ナイフを抜き、水中ランプであたりを照らした。その光に驚いた小魚が逃げだし、それからランプに向かって泳ぎ、虫の群れのように、その青い光の中を泳ぎ回った。
ズリタは手を振って小魚たちを追い払った。小魚たちの鱗の輝きで眼がくらむ。洞窟はかなり大きく、高さは四メートル以上もあり、幅は五から六メートルあった。隅々まで調べたが、洞窟は空っぽで、誰もいなかった。いるのは、荒れた海や大きな魚から隠れている小魚たちだけだ。
 ズリタとバルタザールは、注意深く奥へと進んだ。洞窟は、次第に狭くなってくる。
 突然ズリタは驚いて動きを止めた。ランプが太い鉄格子を照らし出したからだ。彼は、目を疑った。手で鉄格子を引っ張ってみた。だが、鉄格子はびくともしない。ランプを近づけてみると、鉄格子が洞窟の壁に、しっかりと埋め込まれていて、蝶番と内鍵が取り付けられていた。これは新しい謎だった。
 海の悪魔には、知性と並外れた才能があることは、間違いない。
 ヤツはイルカを飼い慣らし、金属を加工する。そして海の底に強力な鉄の障壁を作り、住処を守ることができる。しかし、信じられない! 水中で鉄を鋳造することなど、できるはずがないのだ。それはつまり、海の悪魔は水中に住んでいないか、でなければ長い間、陸に上がっていられるということだ。
 ズリタのまだ潜って数分間しかたっていないのに、十分な酸素がなくなったかのように、こめかみがじんじんしてきた。
 ズリタはバルタザールに合図して、……ここでできることは何もない……浮上した。
 船で待っていたアラウカンたちは、二人の無事を見て大喜びした。
 ズリタは潜水帽を取って一息つけると、ズリタは相談した。
「おい、どう思う。バルタザール?」
 バルタザールは、両手を広げた。
「長いこと待たなきゃなりませんな。悪魔は魚を食べるが、あそこには魚がたくさんいる。腹を減らして出てくることなど、ありゃしやせん。鉄格子をダイナマイトで爆破するしかありませんて」
「バルタザール。他にも入り口があるとは思わないか? ひとつは入り江。ひとつは地上」
 バルタザールは思いつきもしていなかった。
「考えて見る必要があると思わないか。なんで今まで、周辺を見てまわろうとは思わなかったんだろうな?」と、ズリタは言った。
 そして彼らは、海岸を調べることにした。
 すぐにズリタは、海岸沿いの少なくとも十ヘクタールはありそうな広い地域が、白い石の高い壁に囲まれていることに気がついた。ズリタは壁の周囲を一回りしてみた。壁には、厚い鉄板でできた門が一つだけあった。その門には小さな鉄の扉があり、その上部は内側から塞がれていた。
(まるで刑務所か砦じゃないか)と、ズリタはいぶかしんだ。(農民はこんなに厚くて高い壁なんか作らないし、中が見えるような隙間ひとつないなんて、おかしすぎる)
 周辺には荒れ果てた無人の大地が広がっている。むき出しの灰色の岩があり、ところどころに棘だらけの藪とサボテンが生えている。そして下にはあの入り江が見える。
 ズリタは何日も壁沿いを歩き回り、長時間鉄の門を見張ってみた。しかし門が開くことはなく、誰も出入りせず、壁の向こうから何の音も聞こえてこない。
 夕方、ズリタはメドゥーサ号に戻ると、バルタザールに尋ねてみた。
「入り江の上の砦に、誰が住んでいるか知ってるか?」
「農場で働いているインディオから聞いてまさぁ。サルバトールだそうで」
「サルバトール? そりゃあ何者だ?」
「神」と、バルタザールが答えた。
 ズリタは驚いて、黒くて太い眉をしかめた。
「バルタザール、冗談か?」
 インディオは、微笑む。
「聞いた話を、そのまま話してるんですよ。このあたりの多くのインディオは、サルバトールのことを、神とか救い主とか呼んでるんでさ」
「そいつは何から、そいつらを救うんだ?」
「死。サルバトールは、何でもできる。サルバトールは奇跡を起こし、指先で生死をあやつる。足の不自由な者には達者な足を与え、目の見えない者には鷲のような目を与え、さらには死人をも生き返らせる」
「こんちくしょう!」ズリタはもじゃもじゃしたヒゲを指でかきむしりながら、不機嫌そうに言った。「入り江に海の悪魔が、入り江の上には神がいる。バルタザール、悪魔と神は、つるんでいると思わないか?」
「奇跡で頭ん中が腐ったミルクのように固まっちまう前に、ここをさっさと引き上げるべきだと思いますな」
「実際に、サルバトールに治療されたヤツと会ったのか?」
「ええ、会いましたとも。足を骨折した男は、サルバトールを訪れたあと、野生馬のように走ってましたよ。サルバトールによって生き返ったインディオにも合いました。村人たちはみんな、そのインディオがサルバトールの所に運ばれた時、頭が割れて脳みそがはみだして冷たくなっていたと言ってまさぁ。そしてサルバトールのところから元気になって戻ってきて、いい女と結婚したんですとさ。インディオの子どもたちも見……」
「サルバトールは、誰でも診てくれるのか?」
「インディオだけですよ。アタカマ砂漠やアスンシオン、ファゴ諸島、それからアマゾン、インディオならどこからだって来るらしい」
 ズリタはバルタザールからこの話を聞くと、一旦ブエノスアイレスに戻ることにした。
 そこで彼は、サルバトールがインディオを治療して、インディオの間では奇跡を起こす人として知られていることを知った。一方医者たちは、サルバトールが才能のある優秀な外科医である一方、多くの優れた人々と同じく、風変わりな男だと言っている。サルバトールという名前は、旧世界(ヨーロッパ)と新世界(アメリカ)で広く知れ渡っていた。
 アメリカでは、大胆な外科手術で有名だった。患者の状況が絶望的で、他の医者たちがサジを投げると、サルバトールが呼ばれるのだ。彼は決して断らなかった。彼の勇気と創意は無限だった。第一次世界大戦では、フランス戦線において主に脳外科手術を行い、何千人もの人々が彼によって救われた。
 戦争が終わると、彼は故郷のアルゼンチンに帰還した。サルバトールは、医療と土地投機の成功により、莫大な財産を手に入れた。ブエノスアイレスの近くに広大な土地を購入し、巨大な塀でそれを囲い、研究に没頭した。
 そこでインディオたちの治療をし、彼らはサルバトールを地上に降りた神と呼んだ。
ズリタは、サルバトールについて、もうひとつ別のことも知った。
 現在サルバトールの広大な敷地がある場所には、戦前から石の壁に囲まれた小さな庭つきの家があり、サルバトールが戦争に行っている間、この家は黒人と数匹の大きな犬によって管理されていた。この番人たちは、誰一人庭に入ることを許さなかった。
 近頃のサルバトールは、さらに大きな謎につつまれている。彼は大学時代の僚友とすら会おうとしないのだ。
 これらのことを調べ上げると、ズリタは心を決めた。
(サルバトールが医者ならば、病人を診ないということは無いはずだ。ならなぜ病気になったらいけないんだ? 俺が病人のふりをして、サルバトールのところにもぐりこみ、様子を見てこよう)
 ズリタはサルバトールの敷地を守っている鉄の門へ行き、ノックした。しかし、長い間強く叩き続けても誰も扉を開けてはくれなかった。怒ったズリタは、大きな石を拾って、死者をも目覚めよとばかりに扉に叩きつけ始めた。
 壁の遙か向こうで犬が吠え、ついに扉の上部がわずかに開いた。
「何か用か」訛ったスペイン語で、誰かがたずねた。
「病人だ。早く鍵を開けろ」
「病人はそんなふうには叩かない」と、誰かの目が現れ、声が静かに反論した。「先生は診ない」
「病人を診ないってのか!」と、ズリタは憤慨する。
 しかしのぞき穴は、すでに閉まり、足音が遠ざかっていった。犬だけが吠え続けている。
 ズリタは文句を言うだけ言って、船に戻って考えた。
(ブエノスアイレスで、サルバトールを訴えるか?)ズリタは怒りで震えていた。彼の黒い口髭は彼に引っ張られて低気圧を示す気圧計の針のように下へ下へと垂れ下がり、 深刻な危険を表していた。
彼は少しずつ落ち着きを取り戻し、次に何をすべきか考えはじめる。
 それにつれ、ヒゲは日焼けした指で掻き上げられ、気圧計の針は上がっていく。
 ついに彼は甲板に行き、突然錨を上げるように命令した。
 今、メドゥーサ号は、ブエノスアイレスへ向かっている。
「了解」と、バルタザールは言った。「長い時間の無駄でしたな! 悪魔と神が、ヤツを連れ去りますように!」

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