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アレクサンドル・ベリャーエフ 作
「両棲人間」

Александр Беляев
Человек-Амфибия

2003.10.17
2005.1.15
2023.10 最終更新日

第一章   海の悪魔

 それはアルゼンチンの、息が詰まりそうなほど暑苦しい一月の夏の夜のことだった。
 星々に覆われた暗い夜の底に、メドゥーサ号が、ひっそりと錨を下ろしていた。船側に打ちつける波もなく、船板がきしむこともない静かな夜で、まるで海そのものが、深い眠りに落ちたかのようだ。
 帆船の甲板には、半裸のインディオの真珠採りたちが、横たわっていた。日中の仕事と熱い日差しで疲れきり、ぐったりと眠り込んでいるのだ。時折うめき、手足をひきつらせているのは、たぶん彼らの敵……サメに襲われる夢でも見ているのだろう。
 その日は暑くて風もなく、そのせいで仕事を終えて海から上がるころには疲れ果て、帆船にボートを引き上げる気力すら残らなかった。
 それにその必要もなかった。天気は当分変りそうにないので、ボートは錨鎖にもやうだけにして、海に浮かべてある。帆船も、前帆を留める索具も緩んだまま、傾いた帆桁で片づけられていない三角帆が、時折のわずかなそよ風にも、パタパタとはためいている。
 へさきから船尾まで、真珠貝の貝殻・サンゴの欠片・潜水に使うロープ・見つけた真珠貝を入れる袋・空の樽……で、いっぱいだ。
 後ろのマストの近くには、大きな水の樽があり、鉄の柄杓が鎖で繋いである。樽のまわりの甲板は、こぼれた水で黒くなっている。
 ときおり眠っていた真珠採りが、ふらふらと起き上がった。そして眠っている連中の足や腕を踏みつけながら水の樽に近づく。そして眼をつむったまま柄杓の水を飲み、まるで純粋なアルコールを飲んだかのように、そこらに倒れ込む。
 真珠採りたちは、喉がからからだった。朝、仕事の前に物を食べるのは危険だった。(水中で大きな水圧に耐えなければならないからだ。)そのため一日中、水中が見通せなくなるほど暗くなるまで空腹のまま働きつづけ、寝る前に塩づけの肉を食べるからだ。
 インディオのバルタザールが、夜の見張りをしていた。メドゥーサ号の船主の、ペドロ・ズリタの助手として雇われている男だ。
 若い頃、バルタザールは有名な真珠採りだった。彼は人並みの二倍以上、九十から百秒も、水に潜っていることができた。
「なんでそんなことができるのかって? そりゃ俺らのころは仕込み方を知っていて、ガキのころから叩き込まれたからさ」バルタザールは若い真珠採りたちに、そんなふうに話したものだ。「俺が十のころ、親父が俺をホセに弟子入りさせた。弟子は十二人いた。ホセは俺たちをこんなふうに仕込んだもんだ。まず白い石や貝殻を海に投げ入れて命令する。『飛び込んで取って来い』ってな。次はもっと深い場所に投げ入れる。出来なきゃロープや鞭で叩かれて、子犬みたいに海に放り込まれる。『もういっぺん行ってこい!』そうやって俺たちに潜り方を仕込んだんだ。それが終わると、次は長く潜る訓練だ。まずベテランの真珠採りが、錨に籠や網を錨に結びつける。そして俺たちが潜ってそれを解く。解かずに戻れば、鞭かロープの罰をくらう。俺たちは容赦なく叩かれたよ。みんなこれにゃ耐えられなかった。けれど俺は最後まで居残って、このあたりで最初の真珠採りになって、いい金を稼いだってわけさ」
 しかしバルタザールは年を取り、真珠を探す危険な仕事から引退した。左足をサメに引き裂かれ、わき腹を錨の鎖にえぐられたからだ。そしてブエノスアイレスで、サンゴの欠片・真珠・貝殻・海に関する骨董品を売る小さな店を始めた。けれど陸は退屈で、たびたび真珠採りに出かけるようになった。
 どの船主も、彼を高く評価していた。バルタザールほど、ラプラタ湾やその海岸で、真珠貝が採れる場所を知っている者は、いなかったからだ。真珠採りたちも、彼を尊敬していた。彼は船主と真珠採りたちの両方を喜ばせる方法を知っていたからだ。
 彼は若い真珠採りたちに、全ての仕事のコツを教えてやった。息の溜め方、襲ってくるサメの追い払い方、そして……船主に気づかれないように真珠を着服する方法までをも。
 船主たちは、良い真珠を一目で選び出す彼の鑑定眼を知っていて、それを高く評価していた。そのため、船主たちは喜んで、彼を助手や相談役として連れていった。
 バルタザールは樽に座り、ゆっくりと太い葉巻を煙らせていた。マストに取り付けられたランタンの灯りが、彼の顔を照らし出していた。細面で、頬骨が低く、優美な鼻と、大きな美しい目をした、アラウカン族の面立ちだ。
 バルタザールの瞼が重く垂れ下がり、そしてゆっくりと持ち上がっていく。居眠りをしているのだ。けれど、目は眠っていても、その耳は起きていた。彼は深い眠りの中にあっても、目覚めて危険を察知する。だが今バルタザールの耳に入ってくるのは、眠っている者たちの、ため息とつぶやきだけだ。
 海岸から、腐った真珠貝の臭いが漂ってくる。生きている貝を開くのは大変だから、真珠を取り出しやすくするために貝を放置して腐らせているのだ。
 それはとにかく酷い臭いで、慣れぬ人には耐えられぬものだった。けれどバルタザールの鼻は、その臭いを喜んで嗅ぎ取っていた。流浪の真珠採りとして生きてきた彼は、この臭いで自由気ままでスリルに満ちた海の生活を、あざやかに思い出すからだ。
 真珠を取り出した後、大きな貝殻はメドゥーサ号に積み込まれた。ズリタは抜け目なく、ボタンやカフスを作る工場に売っていた。
 バルタザールは、眠っていた。頭が垂れ指先から葉巻が落ちる。
 けれどその意識は、海の遠くから聞こえてくる音に気がついた。彼は目を覚ました。音は近づき、繰り返された。バルタザールは目を見開いた。誰かが角笛を吹いている。そしてその時、朗らかな若者の叫び声がした。
「アー!」
 そしてまた、1オクターブ高く、
「アァー!……」
 角笛の音色は汽船の鋭い汽笛とは似ても似つかなかったし、陽気な声は助けを求める叫びとはまるで違っている。聞いたこともない、未知の何かだった。
 バルタザールは立ち上がった。背筋がぞっとする。船側に近づき、用心深く海を見た。
 誰もいない。
 静かだ。バルタザールは、デッキで寝ているインディオを蹴り起こすと、ささやいた。
「何かが叫んでいる。ヤツかもしれん」
「何も聞こえませんぜ」ヒューロン族のインディオが静かに答えた。その時、角笛の音と叫びが静寂を破る。
「アーア!…」
 その声がまるで鞭であり、その鞭で叩かれたかのように、ヒューロンがしゃがみ込む。
「そうだ。こいつはヤツだ」ヒューロンは、歯をがちがちと鳴らしながら、そういった。
 他の真珠採りたちも目を覚ました。暗闇から逃れるかのように、黄色いランタンの明かりに這い集まって座り込み、耳を澄ませた。再び角笛と声がひどく遠くから聞こえ、そして何も聞こえなくなった。
「あれは、ヤツだ……」
「海の悪魔に違いない」と、真珠採りたちはささやいた。
「これ以上、こんな所にいられない!」
「サメなんかより、ずっと悪い!」
「船主に言わないと!」
 そこに素足の足音が、近づいてきた。船主のペドロ・ズリタが、あくびをしながら甲板にやってきて、毛深い胸をぼりぼりかいた。キャンバス地のズボンだけで、上半身は裸だった。太い革ベルトには、連発銃のホルスターがぶらさがっている。ズリタが真珠採りたちに近づくと、ランタンが、彼の眠そうなブロンズ色の顔・額にかかる太い巻き毛・黒い眉毛・もじゃもじゃした上向きの口髭・白髪混じりの短いあご髭を、照らし出した。
「何があった?」
 その投げやりな、よく言えば平然とした声と、堂々とした振る舞いに、真珠採りのインディオたちは落ち着きを取り戻す。そして一斉にしゃべり始めたので、バルタザールは、手を上げて静かにさせると、代表して話し出した。
「俺たちは、ヤツの声を聞いたんでさ。海の悪魔の……」
「夢だ」ペドロはうつむいたまま、眠そうに答えた。
「夢じゃない。俺たちはみんな、『あぁ!』って声と角笛の音を聞いたんだ!」と、真珠採りたちが叫ぶ。
バルタザールは、また手を上げて、彼らを黙らせ、こう言った。
「俺もこの耳で確かに聞いたんでさ。海の悪魔のほかに、誰も海であんな声を出し、角笛を吹きゃしません。一刻も早くここを離れなきゃならないってもんですよ」
「おとぎ話だ」とペドロ・ズリタはゆっくり答えた。
 ペドロは、海岸からここまで臭ってくるような臭い貝殻を船に積み、錨を上げたいとは思わなかった。
 けれどインディオの真珠採りたちを説得することは、できなかった。彼らは手を振り上げ、口々に、もしズリタが錨を上げないのなら、夜が明けたら上陸し、歩いてでもブエノスアイレスに帰ると、わめいている。
「くそっ、海の悪魔め! わかった、夜があけたら錨を上げよう」そしてブツブツ言いながら、船室に戻っていった。
 ズリタはもう眠る気になれなかった。灯りをつけ、葉巻をくわえ、小さな船室の隅から隅へとゆっくり歩き回る。そして、このあたりの海に現れて漁師や沿岸の住民を怖がらせている、奇妙な生き物のことを、考え始めた。
 この怪物を、はっきり見たという者はいなかった。だが、噂話だけはいくつも飛び交っている。船乗りたちは、まるで怪物に聞かれることを恐れているかのように、あたりを見回しながら、こそこそと話す。
 ヤツは悪さをするが、助けてくれることもある。
 年老いたインディオは、「海の神だ。千年に一度海の底から正義を取り戻すために現れるのだ」と言った。
 カトリックの司祭は、迷信深いスペイン人たちに、海の悪魔に違いないと話して聞かせた。人々が神聖カトリック教会への信仰をおろそかにしたから現れたのだと。
 こうした噂話は、口から口へと伝えられ、ブエノスアイレスにまで広まっていた。
 ここ数週間、タブロイド新聞の記者たちは、喜んで海の悪魔のことを書きたてている。たとえば、漁船や帆船が沈んで原因がわからなかったり、漁網がダメになったり、船に積んでおいた魚が消えてしまったりすると、一斉に海の悪魔の仕業だと非難するのだ。けれど悪魔は、時には漁師のボートに大きな魚を投げ込んだり、溺れかけた人を助けることもあるという人もいる。
 少なくともある男は、溺れ沈みかけた時に誰かが下から背中を支え、そのまま岸まで泳ぎ、男の足が砂地を踏んだ瞬間、その誰かは波間に姿を消したと主張した。
 しかし驚くべきは、誰もその悪魔そのものを目にしていないことだ。その神秘的な実体を説明できる者は、いなかった。目撃者は確かにいた。けれど彼らは、悪魔の頭には角がある・山羊のような髭がある・ライオンの足がある・魚の尾がある・人間の足を持った巨大なヒキガエルだと言い立てた。
 ブエノスアイレスの役人は、最初こうした噂も新聞記事も、空想的な作り話だと考えて、気にしていなかった。
 けれど噂は、漁師たちの間で大きく膨らみ、彼らは海に出ることを恐れるようになり、ついに漁獲量にまで影響し、魚不足になった。
 ここに来て地元当局は、この話の調査を命令したのである。警察沿岸警備隊の蒸気船とモーターボート数隻が、「この沿岸で騒動を引き起こしている、謎の人物を逮捕せよ」という指令を受け出動した。警察は二週間の間ラプラタ湾と沿岸を捜索し、悪質なデマを流したとして、数人のインディオを逮捕した。
 だが、悪魔を見つけることはできなかった。
 警察署長は、こんな公式見解を発表した。「噂は無知な人々の作り話であり、海の悪魔など存在しない。漁師たちに噂を広めた者は、すでに逮捕した。彼らには厳罰が下されるであろう。漁師は、こうした作り話に怯えず漁に出るように」
 これでしばらくの間は、この騒ぎが終息すると思われた。しかし悪魔のいたずらは、終わらなかったのである。
 ある時は、海岸からは十分に離れた沖の漁師たちが、小ヤギの鳴き声で目を覚ました。
 別の漁師たちは、切り裂かれた漁網を発見した。
 新聞記者たちは、待ってましたとばかりに喜んで、科学者たちにコメントを求めた。
 科学者たちが、次のような結論にたどり着くのに、時間はかからなかった。
科学的には、未知の海の怪物など存在しない。それができるのは人間だけだ。ほとんど探検されていない深海であれば、話は別だ。しかし科学者たちは、そのような生物が理知的に行動できるとは、考えていなかった。科学者たちは警察署長とともに、これはすべていたずら者の仕業だと信じていた。
 しかし、科学者の全てがそう考えたわけではない。
 ある科学者は、有名なスイスの博物学者、コンラッド・ゲスナーの著を引き合いに出した。
「十六世紀の科学者コンラッド・ゲスナーの『動物誌』は、長い間博物学者たちに影響を与えました。そして、海の乙女、海の悪魔、海坊主、海僧正についても書かれています。古代や中世の科学者の書は、新しい科学がそれを否定したとしても、正しかったと立証されることが多々あります。神の天地創造は無尽蔵であり、科学者は誰よりも謙虚に、注意深くなければならないのです」
 しかしながら、こうした「謙虚で注意深い人々」は、科学者とは言いがたかった。彼らは科学より奇跡を信じ、彼らの話は科学的な講義というよりも宗教的な説教のようだった。
 結局、論争にケリをつけるため、科学調査団が派遣されることになった。調査団のメンバーは『悪魔』を発見する幸運には恵まれなかったが、『謎の人物』について、いくつかの発見をした。(もっとも年配のメンバーは、『人』ではなく『生物』と表記するよう主張した)
 新聞に発表された報告書によると、調査団は次のように書いている。

『一 我々は砂浜で、細長い人間の足跡を発見した。足跡は、海からやってきて、海に去っていた。ただし、ボートで海岸までやってきた人は、そのような足跡を残すことができる。
 二 網は、水中の鋭い岩、沈んでいる鉄片、沈没船によっても、鋭いカッターで切り取られたようになる。
 三 目撃者によると、イルカは嵐で波打ち際からかなり離れた場所に打ち上げられ、何者かによって海に引きずり戻され、砂の上には足跡と長い爪の跡が残っていた。イルカは魚を捕るとき、漁を浅瀬に追いやって漁師を助けることで知られている。漁師もイルカをトラブルから救出することが度々ある。爪痕は、人間の指先でつけられたのだろう。想像力がそれを爪痕のように見せたのだ。
 四 小ヤギは、イタズラ者がボートで運び、船に乗せたと考えられる。』

 科学者は、悪魔が残した手がかりについて、いくつもの単純な別の理由を見つけ出した。
 さらに科学者たちは、海の怪物がこれほど複雑なことを出来るはずがないと、結論づけた。
 しかしこの報告は、すべての人々を納得させることはできなかった。それどころか、科学者の中にさえ、この報告に懐疑的な者がいた。このしつこいいたずら者が、どうやってこれほど長い期間捕まらずにこんなことができたのかだ。
 科学者たちが、わざと書かなかったことがある。悪魔がどうやって、短時間にあちこちで悪事を行ったかだ。悪魔はものすごいスピードで泳ぐことができるか、特別な力を持っているのか、悪魔が一人ではなく複数いるとしか、考えられない。
 しかもその後、イタズラはさらに理解しがたい驚異的なものとなっていった。
 ペドロ・ズリタは、船室を歩き回りながら、こうした今までに起きている不思議な事件を、片っ端から思い起こしていた。そのうち夜が明け、ついに薄紅色の光の筋が船室に差し込んだことにさえ、気づかなかった。
 生ぬるい水を頭にかぶったときだ。甲板から、驚愕の悲鳴が聞こえてきた。ズリタはずぶぬれのまま、急いで階段を駆け上がった。
 帆船の手すりの上で、半裸の真珠採りたちが、手を振り回しながら、めちゃくちゃに叫んでいる。
 ズリタが見下ろすと、ボートがもやいをとかれ、夜の間に漂い出してしまっていた。そよ風がボートを海に散らし、夜風がボートを入り江の外まで運んでいる。今は朝の浜風によって、ボートは岸へと運ばれつつあった。しかもオールはボートから放り出されて、入り江のあちこちに浮かんでいる。
 ズリタは真珠採りたちに、ボートを集めろと命令した。しかし、誰も甲板から降りようとはしない。ズリタは命令を繰り返した。
 誰かが「あんたが海の悪魔んところへ行きやがれ」と答えた。
 ズリタは腰の連発銃に手をかける。
 真珠採りたちは後退って、マストの周囲に集まった。彼らは敵意をむき出しにして、ズリタを睨んでいる。衝突は避けられないかと思われた。
 しかし、そのときバルタザールが前に出た。
「アラウカン族は、なにをも恐れはしない。サメにも止められぬこの老骨が、悪魔の息の根を止めてやる」そして彼は頭上で手を組み海に飛び込むと、一番近くのボートまで泳ぎ始めた。
 真珠採りたちは船縁から、恐る恐るバルタザールを見守った。もう年で、足が悪いにもかかわらず、すばらしい泳ぎっぷりだ。何度か水をかくと彼はボートに泳ぎ着き、浮いているオールを拾って乗り込んだ。
「ロープがナイフで切られてるぞ! すごい切り口だ! まるでカミソリのようだ!」
 バルタザールの無事を見て、何人かの真珠採りが彼に続いて海に飛び込んだ。

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