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母をたずねて

8 大丈夫だよ

 チャックは、岩山の細い道を下ったところで、モノホイールを呼び出した。
 キャロルは、今度は何も文句を言わなかった。言おうすら思わなかった。
 頭の中が、自分の問題で一杯だったからだ。

 いや、問題は解決している。
 きっぱり縁を切ってきた。
 自分でそうすると決めたとおりの結末になった。

 わずかに蛇行して障害物を避けながら、モノホイールは荒野をひた走る。
 運転は安定したもので、危ういところはまったくない。
 それでもキャロルは、チャックの背中に、ぎゅっとしがみつく。
 今なら、こうして背中にしがみついていても、別におかしくないはずだ。
 あの村を離れ、興奮が収まるにつれ恐怖がぶりかえし、体がぶるぶると震えてきた。
 それも、モノホイールの振動にまぎれてしまうに、違いない。
 チャックの皮のジャケットは、荒野を照らす太陽と、そしてキャロルとチャックの体温に暖められて、ほかほかしている。
 しがみつく両手は、チャックがこのために用意してくれた、新しい皮手袋が包んでいる。
 そのジャケットに頬をくっつけて、流れ行く荒野の景色を、見るともなく眺め続ける。

 この地方は、世界的に見れば地味が豊かで、荒野といっても緑が濃い。
 けれど、人々の暮らしは貧しかった。
 両親との暮らしにも、楽しい想い出は一つもない。
 寒かったこと、お腹がすいていたこと、今にも怒られるのではないかとビクビクしていたこと。
 その不出来を罵るための無理な仕事を命じられたり、まったく自分には関係ないことでなじられたり、殴られたり、蹴られたり、放り出されたり。
 『お前はいらない子だ』と『厄介者の疫病神』だと、存在自体を否定されたり、目の前にいても無視されたり。
 まるでそこに、空気しかないように。

 ……この人は、どうして空気になっても平気な顔をしていられるのだろう? どうして自分のことを、自分で疫病神などと言えたのだろう?
 自分と違い、彼の身近には、それを否定してくれる優しい人たちがいたというのに。

 そして、自分にぞっとした。
 手こそ出さなかったけれど、ここ数日自分が彼にしてきたことは、まさに自分がされたくないと思っていたことではなかったか?
 自分は両親が自分にしたように、チャックを、いじめていたのではなかったか?

 キャロルは、自分に言い聞かせる。
 そんなことが、あるはずがない。
 いくら頼りなくても、チャックは七つも年上の青年だ。
 頼りないけれど、腕っ節はある。
 今モノホイールのハンドルを握っている彼の腕も、その細身や温和な顔つきからは、想像しがたいほど筋肉質だ。
 自分が彼に何をしたって、それこそARMを使いでもしなければ、いじめていることに、なるはずがない。
 七つも年下の女の子に何を言われても、彼はずっと笑っていた。
 へらへらと……つらそうに。
 その彼の笑みの意味を、自分は知っていたはずなのに。

 そして自分が、あの手紙を受け取ってからずっと、ひどくイライラしていたことに、やっと気づいた。
 それをチャックにぶつけていたことに、やっと気づいた。
 仲間の中で、なぜチャックだったのかも、やっとわかった。
 頼りない彼には、自分が絶対に必要だからだ。
 エルヴィスお父さんにとって、自分が絶対に必要なように。
 だから何をしても、彼は自分から離れていきはしないのだと。

 けれど、本当だろうか?
 あの産みの母も、そう思ってたのではなかったか?
 彼女もキャロルの母というだけで、自分に絶対に必要とされていると信じていたのではないだろうか? だから何をしても、自分が離れていくことなどなく、たとえ離れても声さえかければ戻ってくると、信じていたのではなかったのか?
 そして自分は、あの産みの母に、気質が似ているのではないだろうか?
 お父さんの愛を絶対と信じることができ、だから甘えることもできる。たまには、しかたがない人だとは思うけれど、お父さんは尊敬の対象であり、お父さんが大好きだ。
 ここ数日。自分はチャックに甘えきっていた。けれど尊敬し、好きでありつづけたと言えるだろうか?
 本気で彼の言動の一つ一つにイライラし、それの感情を彼にぶつけ続けていた。
 なさけなくて、頼りない部分ばかりを見て、それ以外の部分に目を向けようとしなかった。
 彼がどんなに善良で、頼りがいがあり、優しいか、その優しさを発揮するためなら、どれほど強くなれるか、よく知っているはずなのに。

 キャロルは、チャックの背中に、ことさらしっかりしがみつく。
 さほど大きくない背中。
 さほど頼りがいの無い背中。
 自分に対して笑ってばかりいる彼。
 そして今度の短い旅の間に見た、いくつもの彼の別面。

「ごめんなさい」

「何か言った?」

 小さくつぶやいただけのツモリだったけれど、聞かれたらしい。

「なんでもありません!」

 そして再び、流れる景色を眺める。
 つらかった昔。同じ村の人たちも、キャロルに手を差し伸べる余裕はなかった。
 こうしてキャロルを護ってくれる背中は……。

 キャロルは大切な人のことを思い出し、目を見開いた。
 ……護ってくれた人がいた。
 彼のことを忘れていたことが、そして今になって思い出したことが、情けなく、そして悔しくてならなかった。

 その人は、消えてしまった。
 正確には、最初から存在しなかった。
 彼はキャロルの、心の中にだけ存在していた。

 当時、キャロルのささやかな楽しみは、想像することだけだった。
 想像の中で、キャロルは優しい両親と共に暮らし、両親と同じものを食べ、寒い夜には一枚の毛布の下で身を寄せ合った。
 けれどそんな想像は、目の前の厳しい現実の前にはあまりに無力だった。
 最後まで残ったのが、こうした境遇の子にありきたりの、実は自分の本当の両親が他にいて、今でも自分を探してくれていて、いつか迎えに来てくれるのだといった夢想。
 そしてもう一つが、自分を護ってくれる人がいるのだという夢想だった。
 村に仲のいい兄妹がいて、そのお兄さんがとても妹思いで、うらやましかった。
 だから自分にも、そんな兄がいるのだと。
 食事を抜かれてお腹が減った時は、お兄さんがゴミの中から、食べられる物を探してくれる。そしてそれを全部、キャロルにくれる。
 キャロルはお兄さんに、分け合おうというのだけれど、お兄さんは全部キャロルが食べなよと笑うばかりだ。
 両親が使うために、薄い毛布すら取り上げられた冷え込む夜には、お兄さんが腕を回して暖めてくれる。
 火の消えたかまどの中に、一緒にうずくまり、残り火で焼けどした手足を、やさしくその手で覆ってくれる。
 両親たちが、理不尽な怒りを自分にぶつけはじめると、お兄さんは、怯えるキャロルの前に果敢に立ち、両親にはむかいはしないけれど、その暴力を一身に受けながら、背後にいる妹のキャロルを護り通す。
 キャロルは床にしゃがみこんでぶるぶる震えながらも、無力で可哀想な小さな妹のキャロルのために、両親のどんな暴力にも耐え切る兄の背中を見上げている。
 そして解放されれば、痛みをこらえながら、まだふるえているキャロルに笑顔を向けて慰める。
「大丈夫だよ」と……。

 ただの一人二役だ。

 そのお兄さんなど存在しないことを、キャロルは知っている。
 ただ、弱い妹を護る強いお兄さんのつもりになって、自分で自分自身を護る夢想で、現実をしのいでいただけだ。

「大丈夫だよ」

 いきなりチャックにそう言われて、キャロルは過去の夢想から引き戻された。
 目の前にあるのは、チャックの背中。

「な、何が大丈夫なんですかッ!」

「全部さ。大丈夫だよ」

 チャックは、何もわかってないと、そう思った。
 なのになぜ、こんなタイミングで、その言葉を口にするのか?
 キャロルは再び、過去の夢想に浸ろうとする。
 嫌な思い出ばかりの過去の中で、そのお兄さんであった自分は、とても勇敢で、いつも自分を護ってくれて……。

 それ以上、思い出せなかった。
 名前、顔立ち、髪と肌と目の色、どんな服を着ていたのか?
 想像上のお兄さんは、その全て備えていたはずだ。
 一緒に眠る時の吐息。
 イジメの矢面に立ってくれる、お兄さんの背中。
 荒野に飛び出した時も、お兄さんは小さなキャロルの手を引いて「大丈夫だよ」と語りかけてくれていた、その声、その手の感触。
 それらはあったはずなのに、思い出せない。

 エルヴィスお父さんに拾われたころは、まだお兄さんはいた。
 恐ろしい大きな男に一緒に抱きしめられているときも、お兄さんは「大丈夫だよ」と、キャロルを慰めてくれていた。
 最初は怖かったお父さんの大きさや強さが、突然叫びだしたりすることもあるその声が、ひどく頼もしく思えたとき、お兄さんは消えていた。
 その存在が、すっかり頭の中から抜け落ちていた。

 ディーンに、妹になれと言われた時、果てしなく舞い上がった。
 そのお兄さんのことを、思い出してこそいなかったけれど、彼のようなくじけない人だったはずだ。
 年の差だって、ディーンほどだったのではないかと思う。

 なのに、そのお兄さんのことを思い出した今、そのお兄さんの何について知っていたかは覚えているのに、具体的なことは何一つ思い出せない。
 思い出そうとすると、頭の中に浮かぶのは、今あるチャックの背中と、チャックの姿。チャックの声。

 ……たぶん想像上のお兄さんは、自分とそう大差ない姿のはずで、自分に似た色の目と、似た色の髪を持っていて、金髪碧眼ではなかったはずだ。
 皮のジャケットなどという、立派なものは着ていなかったはずだ。
 絶対に、自分より少しだけ年上で、そして頼りがいがあったはずだ。
 きっとディーンみたいだったはずなのだ。
 なのに、思い出そうとしても、それはチャックの姿に摩り替わってしまう。
 どうしてこの大切なお兄さんの存在を、自分は忘れてしまっていたのか? どうして今なお、その詳細を思い出せないのか? どうしてイメージが、頼りないチャックにすり替わってしまうのか?

「大丈夫だよ」

 チャックが、繰り返す。
 きっと彼が、こんなことを言うからだ。
 チャックはモノホイールで荒野を疾走しながら、振り返りもせず繰り返す。
 なぜ今その言葉を、自分に投げかけるのか?

 キャロルはいつのまにか、泣いていた。
 その涙を、チャックの背にすりつけていた。

「大丈夫さ!」

 チャックには、今自分が泣いていることなどわからないはずだ。
 それに、何が大丈夫なのか、彼もわかってないに違いない。
 キャロルにすら、何を恐れて泣いているのか、わかっていないのだから。
 なのにチャックは、前を向いたまま、その言葉だけを繰り返す。

「大丈夫!」

 なんの根拠もないその言葉。
 けれど、ここまでしつこく繰り返されると、なんだかそんな気になってきた。

 大丈夫だ。自分にはお父さんもいるし、友だちもいるのだから。

「大丈夫じゃありません!」

 キャロルは叫ぶ。

「もう、お昼をずいぶん過ぎています。私はお腹がぺこぺこです!」

「確かに大丈夫じゃないね!」

 チャックはそう叫んで、モノホイールを止めた。

「今回は、私が食事を作ります!」

 ふりかえってチャックが言った。

「大丈夫かい?」

 どうしてこの人は、こんなにも気が利かないんだろうと、ため息が出た。

◆続き