アヴリルの家出
4 古代の幻影
アヴリルは、ゆっくりと噛みしめるように話し始めた。
「わたくしは、月のミーディアムと疫病神であることは、関係があると思います。けれど、なぜミーディアムの一つが『負と災厄の月』でなければならなかったのか、道具でしかないはずのミーディアムが、なぜ疫病神を生み出したのかまでは、わかりません。
そうなることは、知っています。けれど、そうしたわけではないのです。ループ中のわたくしにとっても、未来の出来事は、完全に固定されているわけではないのです。
わたくしが作った月のミーディアムは、他と同様道具でしかなかったのです。
そして月のミーディアムは、ひどく優しい人を、主として選びます」
「優しい?」
「ええ。恨まず、憎まぬ人です」
「……ボクは逆に、負の感情をミーディアムに絡め取られてしまっているんじゃないかと思ってたよ」
「そのような作用はありません。もしあれば、ミーディアムは、人を選びません。手放すこともできたでしょう。
それにチャックは、とても悲しみますし、怒りもします。さらに言うなら、どちらかと言えばマイナス思考です」
「あはは……、その通りだね。ミーディアムは、そんなボクに馴染むように作ってあったのかい?」
「ええ」
「ははは……。もう少しマシな人選ができそうなものなのにね。たとえばヴォルスングとかさ。彼は強いし、セレスドゥの力を手にしていたら、怨念に支配されずにすんだかもしれない」
「いいえ。負と災厄のミーディアムが、他者や境遇を嘆く人の手に渡っていたら、どのような疫病神が生まれたでしょうか?」
「……ボクは、そんなに上等な人間じゃない」
「わたくしは、チャックでよかったと思います。仲間となれたことを、友だちとなれたことを、嬉しく思います。
ファリドゥーンを説得できたのも、チャックだからではありませんか?」
チャックは、それには何も答えなかった。
やがて白々とした空の下、二人は山頂へたどり着く。
風はことさら冷たく、息が白く濁る。
互いの手の暖もりが、心地良い。
チャックはそのまま手を引いて、明るさを増す東側ではなく、南側へとアヴリルを誘った。
「間に合ったね。見えるのは、ほんのわずかな時間なんだ。今日はきれいに晴れてるから、きっとよく見えるよ」
空は言い表せないほどじわじわと明るさを増し、星は姿を消していく。明けの明星が、白む空の中でひときわ強く輝いていたが、やがてこの星系の主星の先触れが地平線上に現れると、主役の座を明け渡す。
先触れは地平線で赤く滲み出し、唐突に今までとは比べものにならないほど、強く鋭い光を世界に投げかけた。
「ほら」
「あ……」
ただの荒野であった場所に、陰影が鮮やかに、かつての都市の痕跡を描き出していく。
「あのラインを、大通りって呼んでる。地平から山の麓まで。反対側からも地平まで続いている。小さな村ならすっぽり入ってしまうほど広い通りだ。
道にそって並ぶ固まりは、大きなビルだったんじゃないかな。だとすれば一つ一つがライラベルほどもあるビルだけど。
あそこは道が交差してるんじゃなく、道の上に道が重なっているみたいだ。わからないのは、鉄道がないのと、あの空白地帯だよ。鉄道網があると思ったんだけどな」
「公園です」
「え?」
「空白地帯は、緑地保護区です。ドームで環境を保護し、鳥や小動物たちが暮らしていました。その右手の窪地は、地下貯水場が陥没したのでしょう。鉄道は地下駅から四方へ広がり、ターミナルを、毎日何万もの人々が……」
「アヴリル?」
言葉を失ったアヴリルを、チャックは心配そうにのぞき込む。
アヴリルは両手で頬を押さえ、指先を涙でぬらしていた。
「ここに、いたのです。わたくしは、ここにいたのです。まさにこの場所に。この山は中央行政府の名残なのです。ここがわたくしの世界の中心、わたくしの居場所だったのです。
この山がまだ建造物であった時代に、わたくしはここから世界を眺めていたのです。
地平を越えて広がる都市を。
人々の活動により暖められ、濁った大気を。霞む地平を。
日々姿を変えていくこの都市を、この目で見ていたのです。都市は生き物です。維持する者がいなくなれば、滅びます。
あぁ……。わたくしの世界は、すべて消えてしまったのですね。ここで暮らしていた人々は、みないなくなってしまったのですね」
「ゴメン。こんなつもりじゃ……」
「いいえ、チャックのせいではありません。わたくしは、まさにこの場所を目指して来たのです。わたくしの世界がもうないことを、確かめるために。ここにチャックが、そして教授がいるなど、思ってもいなかったのです。
ただ暗く、寒く、そして孤独であることに耐えられなくなり、焚き火の光が見えた時、それを求めました」
アヴリルは、もはやぬぐうことも忘れ、涙を流し続けている。涙は乾いた地に落ち、染みこんで消える。
荒野に描かれた都市の陰影も、太陽が地平を離れるごとに、刻一刻と消えていく。
そのまま時が流れていく。
やがてチャックは頭を掻きながら、申し訳なさそうに声をかける。
「えっと、今更なんだけどさ、ディーンとうまくいってないんだろ?」
無言が、それを肯定していた。
「ディーンも、どうしていいかわからないんだと思う。キミがディーンたちと一緒に旅をした記憶を持っていることを伏せていたのも、ディーンがいたからじゃないかい?」
「どうしてそう思うのですか?」
「それを知れば、ますますディーンは、ループ中のアヴリルを、キミに求めるようになる」
「わたくしは、わたくしです。記憶を共有しても、ループしているわたくしにはなれません。
彼女の背後には、無限に連なるループの記憶があるのです。その経験に裏打ちされて、彼女は在ったのです。ディーンへの想いの源も、そこにあります。
ですがわたくしは、この時間軸の連続した一つの記憶しか持っていません」
「ボクたちと同じように?」
「ええ。そうです。わたくしは、ループ中のわたくしが何をしたか、知っています。どうしてそうしたかも、ある程度説明できます。
ですが感情は共有していません。この時間軸以外の記憶も、夢よりさらにおぼろげなものでしかありません。
ディーンは嫌いではありません。ループ中のわたくしにとって、特別な存在であったこともわかります。どのような感情を持っていたのかも、覚えています。
けれどわたくしにとってディーンは、特別ではないのです。そのわたくしにとって、ディーンの愛は重すぎるのです」
いつしかアヴリルが見つめる荒野は、この星のどこにでもある平凡な風景へと変わっていた。