そろそろ流行りも終わりそうな「萌え」ではあるが、「萌え」という言葉そのものは使われなくなるにせよ、「萌え」は日本文化そのものに深く結びついて、広く拡散し浸透するだろう。
それは、かつてSFに起こったことと同じだ。いまやSFは、全く流行らないジャンルになった。だが、創作にSF要素は失われたのか? いや、全く逆だ。様々な作品にSF的要素が含まれており、我々はそれを当然のように受け取っている。
SFはあまりに浸透し拡散してしまったがために、かえってコアのSFというものが希薄になってしまった。SFというものに強い思い入れを持つ人で無い限り、浸透し拡散したSF要素だけでお腹いっぱいになってしまい、わざわざコアなSFを求める必要がなくなってしまったのだ。
これと同じ現象は、そろそろ「萌え」でも起こり始めている。
「萌え」愛好家は、「あちこちで、萌えを外形的に真似ただけの、劣化した萌えモドキが、はびこっている」と憤るかもしれない。だが、そういうものだ。それはSFでも起こったし、「萌え」でも起きている。そして、将来出てくるだろう「何か」でも、同じことは起こるに違いない。
けれど、「萌え」には、SFにない有利な点もある。それは、「萌え」とは、日本文化に本来備わった属性だからだ。
もちろん、日本文化に昔から「萌え」という言葉があったわけではない。だが、「萌え」を分解してみると、それは日本文化に古来から存在したことがわかる。
1.パーツ愛
まず、パーツ偏愛について。
「萌え」は細部にこだわる。というか、同じものであっても細部が異なることによって、古臭いものであっても再び新鮮さを取り戻し、輝くことが出来る。
でも、これって昔からある。
それは、「趣向」という言葉によって表現されてきた。
日本人は、毎年暮れになると『忠臣蔵』を楽しんでみることが出来る。でも、これって同じ話じゃないか。なぜ毎年毎年同じ話を楽しむことが出来るんだ。
それは、「趣向」の力による。同じ話であっても、毎年「趣向」が違う。『忠臣蔵』だって、大石蔵之助を主人公にする正統的『忠臣蔵』もあるが、その子供の大石主税を主人公にした若者の『忠臣蔵』もある。それどころか、『四谷怪談』ですら、『忠臣蔵』のサイドストーリーだ。
つまり、大きな物語の中の一部だけを取り出して、それを愛するということができるのだ。これをパーツ愛と呼ばずして、なんと呼べば良いのか。
2.キャラ愛
物語に登場していたキャラクターを、その物語から切り離し、キャラとして愛することが出来る。
沖田総司は、もちろん新撰組一番隊長であり、結核によって若くして死んだところが、人々の愛するところとなっている。
で、沖田総司のファンって、沖田についてきちんと知っているのか。彼がいかなる歴史背景をもとに登場し、どういう思想を信じており、それに基づいて何をしたのか知っているのか。結構知らない人が、多いのではないだろうか。
ちなみに、これはそういうファンを責めているのではない。そういうことを知らなくても、人はキャラを愛することが出来ると言っているのだ。つまり、キャラのイメージというものを愛することが出来るのだ。
こういうのを、日本文化では「ご贔屓」という言葉で表している。
3.少女愛
日本はなぜか、若さを若さだけでありがたがる傾向が強い。もちろん、これは洋の東西を問わずに存在する傾向だが、日本のそれは極端だ。
これが明確になるのは、『源氏物語』からだ。光源氏は、まだ10歳ほどの若紫を見初め、略奪して屋敷に連れ帰るのだ。今なら絶対に逮捕されるロリコン男も、世界初の小説に書かれてみれば、崇高な愛の行為に見えてくるから不思議なものだ。
また、日本人は、何かというと弱いものに仮託して何かを語る傾向が強い。紀貫之の『土佐日記』も、女性の日記という振りをして書かれている。考えてみれば、貫之はネカマの元祖と言えるかもしれない。
こういうものを、日本文化では「いとおし」という。
考えてみれば、現在の日本の同人文化、インターネット文化に存在する恥ずかしい行為と言われるものは、全て遙かな過去から日本文化に根ざしていることが判る。
そして、「萌え」というものの本質部分は、名前こそ付けられていないものの、日本文化に本来的に備わっていることが判るだろう。
この点が、SFに比べ、大いに利点となっている。
さて、「萌え」がSFのように拡散してしまうのか、それとも日本文化として定着するのか。これはこれで楽しい見ものではないだろうか。