ロールプレイは難しい。それは、様々な理由があるけれども、その一つに、結果を知らずしてストーリーを話さなければならないという点があるのは、否定できない。
これは、「決してお前を許さない! この俺の怒りの一撃を受けてみろ!」と叫んでから、ファンブルを出してしまった場合に、露骨に現れてしまう。周囲から、「お前の怒りってのは、こんなもんか」とツッコミを入れられてしまい、せっかくのシリアスでかっこいいシーンが台無しになってしまう(まあ、これならギャグになるだけ、まだマシなのであるが)。
しかし、例えファンブルを出したにしても、「俺の渾身の一撃を、敵は余裕の表情で避けてみせる。そして、『ふっ、所詮雑魚は雑魚。私の前に立ちふさがることはできんよ』と言う。俺は、屈辱で体が震える」というシーンに持っていけたなら、それはそれで許せるというものだ。この屈辱は、次に敵に命中し、敵の余裕の表情が消えた時の伏線として、なかなかいい感じだからだ。
とすると、実はダイスの目を知ってからロールプレイしたほうが、簡単にストーリー的にかっこいいロールプレイができる。失敗は失敗で、敵の手ごわさを演出するシーンにできるし、成功は成功で、自分のかっこいいシーンにできるのだから。
私は、前者のような結果が解らないままで行うロールプレイを不確定性ロールプレイ、後者のように結果が解ってから行うロールプレイを確定性ロールプレイと名付けてみた。
こうして比べてみると、不確定性ロールプレイと確定性ロールプレイの差は明らかである。確定性ロールプレイの方が、遥かに容易である。別の言い方をすれば、同じ努力でより深いロールプレイができるのだ。
ならば、みんな確定性ロールプレイをしたほうが、RPGを簡単に深く楽しめるのではないだろうか。けれど、そうはなっていない。これは、なぜだろうか。
それは、人々がダイスの魔力に勝てないからである。
ダイスを振ることがあまりにも楽しいので、プレイヤーはその瞬間に楽しさの頂点を持ってくるように調整してしまう。つまり、「決してお前を許さない。この俺の怒りの一撃を受けてみろ! でやー!」などと台詞を叫ぶ場合、どうしても「でやー!」のところでダイスを振ってしまうのだ。このため、ロールプレイの大半は、結果が不確定な時点で行わなくてはならないのだ。
つまり、ダイスを振るRPGをプレイする限り、不確定性ロールプレイにならざるを得ないのだ。
ならば、確定性ロールプレイを行うにはどうすればよいか。それは、ダイス以外の判定システムを採用するしかない。そして、そのようなRPGは日本に存在する。そう、『トーキョーN◎VA』である。
N◎VAは、判定をカードで行う。そして、そのカードは通常手札から出す。ということは、プレイヤーはカードを出す時点で、この判定に成功するかしないかを(ルーラーの出すカードが解らないので、不完全ではあるのだが)予測できるのだ。
さらに、神業の使用を宣言すると、それは必ず発動する(敵が神業を使って阻止することもあるので、これも完全ではないのだが)。つまり、これも神業を使う前に、成功することが予測できるのだ。
つまり、N◎VAは、その本質からして確定性ロールプレイに向いているのだ。ロールプレイの楽しさを増やすために、ダイスを振る楽しさを犠牲にしているともいえる。犠牲にした楽しさよりも、新たに得た楽しさのほうが大きいために、N◎VAのプレイヤーは満足しているわけだ。
だからこそ、N◎VAのプレイヤーは、濃いロールプレイをするのだし、システム的にもそれが暗黙のうちに推奨されている。
手札による判定+神業=確定性ロールプレイ(ロールプレイのやり易さ)=濃いロールプレイ という関係こそが、N◎VAを他の多くのRPGと分ける濃さの原典となっている。N◎VAのファンの濃さの原因は、もちろんその世界設定の濃さにもあるのだけれど、システム的にも濃くなるように作られているからなのだ。
実際、N◎VAの第1版には、カードを使うことによって、より深いロールプレイが楽しめるという意味のことが書かれていた。ただ、当時その意味を理解した人はいなかった。現在になって、その意味が多少は理解されて来たかも知れない。
逆に言うと、『ブレード・オブ・アルカナ』がダイスを使っていることから、BoAはN◎VAほど濃いロールプレイをするRPGとしては設計されなかったことがうかがえる。BoAは「ロールプレイのゲーム」というより、「闘いの美学のゲーム」であり、そのように最適化されてデザインされているということではないだろうか。