ことの次第は、先日突然「アニメの企画書作成を手伝ってほしい」という仕事が、舞い込んできたことに始まる。
企画書が通れば、シナリオも一部担当させてくれるという話だった。
ただ、その話をもちこんできた相手がしきりに申し訳ながっていたのが、「アニメの仕事は無茶苦茶安い!」という点であり、そしてまったくその通りだったのである。
アニメの仕事は安いとは聞いていたが、あれほどとは思わなかった。
もちろん、私は彼らにとって海のものとも山のものともつかないクリエイターである。
当然報酬は最低ランクだろう。
とはいえ、大半のシナリオライターが、月に4本も5本もかかえる(つまり、それだけこなさなければ、食っていけない)という事態では、何が起きるか?
たとえば小説を書くとき、キャラクターによって口調を変える。
自分のことを「私」というキャラクターが複数いても、「私」だったり、「わたし」だったり、「ワタシ」だったりする。
そうすることによって、キャラクターの個性を出す。
だけど、月に何本もシナリオを書かなければならないとなると、そんなことをしているヒマはない。
とにかくもう、書き散らさなければならないわけだ。
あとでミスに気づいても、修正なんてしている余裕はない。
小説なら、校正する専門の人がいて、誤字脱字や、矛盾なんかを見つけるけれども、それを修正するかどうかは作者の権限なので、ここが変だとか、ここを治したいとか赤の入った校正原稿が、作者の方にやってくる。
そして校正原稿は、時には何度も作者と編集者と校正者の間を、いったりきたりする。
時間的余裕のない雑誌類であっても、1度はくる。
その余裕がないときは、ゴメン! という連絡がくる。
少なくとも、それがまともな手順ということになっている。
ところが、アニメのシナリオだと、一度できましたと、他の人に渡してしまえばそれっきり、しかもその後、さまざまな人の手を渡るごとに変更が加えられたりして、まったく別ものになったりもすることが、普通なのだそうだ。
もちろん、最近はそうじゃないアニメスタジオも若干あるそうなのだが、それはあくまでも少数派でしかないのだそうだ。
そんな環境の中でも、天才はいて、ときおりいい作品ができたりする。
それを、「やろうとすればやれる」だとか、「愛があれば、低賃金でも、ヒマがなくてもいい」なんて言うのは、逃げでしかない。
やりたいから、好きだからお金に関係なく、全をつぎ込んで、傑作ができるまで時間をかけ手間をかけ、やる! というのは、芸術家であって、職業人(プロ)ではないのだ。産業として成り立たないならば、いきつくのは低予算で作られたチープな生産物と、つぎ込む余裕があった人個人の趣味で作られた芸術作品しか残らないのである。
産業として成立するには、天才級のクリエイターだけではダメだし、天才級のクリエイターは、その百倍の秀才級のクリエイターと、千倍の凡才と、一万倍の予備軍と、10万倍のファンの支えが必要なのだ。
まともに「アニメをクリエイトする」ということで、稼ごうとしなかった、好きなものを高く売ることを拒んだ体質が、結局食うために即席に売れるものに飛びつき、キャラクターの版権で稼がなければならないがゆえに、TVアニメはまるごと広告塔になっていったといっても、いいだろう。
もちろん、今は違う。
今は違うが、ザブングルが作られたのは、まさにそういう時代だったのである。
超合金オモチャを売るための番組であり、スポンサーはオモチャメーカーだったのである。
生ビデオテープですら1本4千円以上する時代だったのである。
それでも、あれだけの質を維持したんだから、ザブングルは偉いのである!
だいたい、ザブングルのLDすら買ってない私が、文句を言ってはいけないのである! いや、版権グッズはいっぱい買ったからいいのか。グラフィティのビデオも買ったしな。
それはそれとして……。
そして時代は変わり、その体質から抜け出したアニメスタジオもできたし、買ってくれるのは小さなお友達から、より購買力を持った大きなお友達になった。
なにより、LDやビデオによって、作品そのものを、直接消費者に売ることができるようになった。何かを売るための作品ではなく、売れる作品を作れるようになったのだ。
今は昔とは違うが、それでも、大半のアニメスタジオは低予算にあえいでいる。
私には、「好きだから、お金はいらない」という考えは、わからない。もうこればっかりは、わからないのだ。
もちろん、趣味ならそれでいい。
だが仕事としてやったとき、私は自分がクリエイトしたものを、安売りはしたくない。
それは魂の安売りであり、その産業の首を締めるダンピングに他ならない。
……話がずれたので、そろそろ終わる。
ともかく、「好きだから言わせて!」では、私は言いすぎたので、反省しているのである。
追伸 例のアニメの仕事は、思ったよりお金になりました。