「マリッジブルーかい?」
ファリドゥーンの結婚式が間近に迫ったRYGS邸。
式の打ち合わせにやってきたチャックに笑われ、ファリドゥーンは渋面を作る。
渋面は、チャックの内心を思ってのことだ。
だいたい、自分の結婚式をチャックに手伝わせることに無理がある。
チャックからルシルを取ったという意識が、どうしても抜けないのだ。
そんなことをルシルに知られれば、また「あたしは、取ったり取られたりする物じゃありません!」と怒られるとわかっていても、家族の中にまで身分の上下関係を持ち込んでいた公私混同は、一朝一夕で直るものではない。
「今更、ルシルとの婚約が間違いだったなんて言い出すんじゃないだろうね」
チャックの視線がすぅっと冷たくなるのを感じて、ますます人選の無理を感じる。いや、そもそも……。
「ルシルを妻に娶ってよいものだろうか」
口にしたとたん、チャックの視線が、今度ははっきりと冷たくなった。が、すぐにチャックは眉を上げ、興味深そうな眼差しに変える。
「いいに決まってるじゃないか」
「いやだが、ルシルは立場上断り切れず私の結婚の申し込みを受けたのではないだろうかッ!」
チャックに対するファリドゥーンの眼差しは、すがりつく勢いだ。
今度は、あからさまにため息をつかれた。
「あのさ、ルシルがキミの身分を気にするなら、『本妻じゃなく愛人にしてください』って言うと思うよ」
「まさしくそう言われたのだッ!」
「あははっ!」
やっぱりね! と、朗らかに笑われる。
「で、キミはそこを押して婚約したんだろ?」
「当然だ。彼女を愛人になどすることはできん」
「だったらいいじゃないか。キミはルシルを妻にすると心に決めたんだろ?」
「だがそれが彼女の本意でないのならッ!」
「まったく今になって突然どうしたんだい?」
ファリドゥーンは、言いにくそうに口ごもる。
「世間の雑音でも耳にしたかい?」
黙ってうなずくファリドゥーンに、チャックはやれやれと両手を広げる。
「弱気になるなよ。彼女のキミへの気持ちは、ボクが保証するからさ」
「だがルシルは、私がいない間も、私の身を案じている様子などなかったと」
トゥエールビットで、主を失ったRYGS邸を一人で護りながらも、ルシルは主が戻らず職を失う事を案じていたという噂は、ルシルも認めている。
「ルシルは現実的だからね。それに彼女がそんな風になったのはボクのせいさ。心を凍り付かせて現実を見る以外、自分をたもてなかったんだよ」
チャックはしばらく笑みを浮かべて、黙り込んでしまったファリドゥーンを見ていたが、やがてその笑みを消す。
「ボクらの村じゃね、希望なんか持つなって言われながら育つんだ」
淡々と言われ、ファリドゥーンは口にしようとした言葉を失う。
「そう言われたって子どものうちは夢を見る。誰かが村を離れるたびに希望を捨てる。そして自分が村を出るときは、全ての夢を捨てるんだ。若い娘が期間を定めない奉公に出るってことが何を意味するか、キミも知ってるだろ?」
「ああ。だからこそこのトゥエールビットでは……」
ファリドゥーンはその言葉に驚き顔を上げ、息を呑む。
自分に向けられているのは、石のような無表情だ。
「ルシルは、トゥエールビットの奉公人制度のことなんて知らなかった。テレビでやってる豊かな生活なんて、ボクたちにとっては全部ウソだった。ボクらにとっての現実は、出稼ぎや奉公に出たらそれっきりってことだけさ。身も心もボロボロになって捨てられたって、村に戻ることはできやしない。しかも村の方もお先真っ暗。戻る村が先に潰れてたって不思議じゃない状況だった。金持ちの貴族に愛人として望まれるなんてのは、願ったって叶わない夢のような幸運さ」
「私はッ!」
慌てるファリドゥーンに、やっとチャックはニコリと笑い、両手のひらを向けてファリドゥーンを押しとどめる。
「キミがルシルを連れていった日も、ルシルは三日、水以外口にしてなかった。それがあの村の、あの地方の現実だったんだ。非合法の渡り鳥の方が、ずっといい生活ができる。そしてボクも、ルシルを捨てるために村を出たとき、全ての希望を捨てたよ。いや、それ以前にかな?」
チャックは微笑えんでいるが、眼差しは悲しそうに揺れている。
「出世してルシルを迎えにいく。ボクは形ばかりそんな夢にすがって村を出た。けれどね、その夢を少しでも信じていたなら、きちんとルシルに待っててくれって、話すことができたと思うんだ。だけどその夢を口にすれば、結局彼女を失望させてしまうだけだと思ったから言えなかったのさ。ハンターを目指すからって、彼女から逃げたのさ」
「ゴーレムハンターは、チャックの夢ではなかったのか?」
「口実さ。そして彼女も、口実だって気づいてた。彼女はキミに、こう言ったんだろ? ボクのせいで人を愛することが恐くなったって。もう一度希望を持つには時間がかかるし恐くもある」
「チャックの方が、私よりずっとルシルを知っている」
「もちろんだよ。これからは違うとしても、ボクの方がキミよりもずっと長く彼女を見てきたんだ。ボクとルシルは出会いさえしなかった。物心つく前から幼なじみとして間近にいた。だからこそボクはキミに保証するよ。ルシルはキミに惚れている。たとえルシルが自覚してなくてもね」
困惑しきりのファリドゥーンを、チャックは正面からじっと見据える。
「キミを見る彼女の眼差しと笑顔は、間違えようがないんだよ。キミがいたから、彼女はそんな風に笑うことができるようになったんだ。そのことに感謝してる」
チャックは優しく微笑んでいたが、ふいに目をそらすと、「ほんと、悔しいけどね」と呟いた。