昔、ヴォルスングがRYGS邸にやってきた時、彼は自分のことを、「我」と言ってはいなかった。
「なぜずっと、我なのでありますか?」
「お前も我のことを、ずっと敬称づけで呼ぶではないか」
ソレとコレとは違う気は、しないではない。
だいたいベルーニは、上下関係に厳しいのが普通だ。
怨念と無縁なころからファリドゥーンはヴォルスングを主と定めた。力の差の変化と共に上下関係が逆転することもあるが、それはない。
「ヴォルスング様は、私の友でありますが、主でもありますから」
「ディーンの仲間たちはみな、ディーンを名で呼んでいるぞ」
「私は私です」
「我も我なのだがな」
「それは構わないのですが、なぜかと不思議なのです」
「我が荒野を彷徨いし時、怨念のみが語らう相手であった。怨念は過去の思念。その一部となった我の言葉使いが、多少古風になろうとも、しかたあるまい。しかしファリドゥーン。お前の言葉使いも、時折古風になるではないか」
ヴォルスングに言われ、ファリドゥーンは頭を掻く。
実のところ、我と言い出したヴォルスングに、少しだが合わせているところがある。
ルシルは首をかしげて、ささやかな疑問を口にする。
「ヴォルスング様。昔の人々は自分のことを、ワレって言ってたんですか?」
「そうではないな。我は理解者を欲していた。我らと呼べる仲間を。孤独を癒しあえる理解者を。怨念は思念の集合体であり、我はその依り代であった。ゆえ我は『我ら』なのだ」
とたんにファリドゥーンが、オロオロしはじめる。
「ヴォルスング様。ではなぜ怨念を断ちきった今なお、『我』をお使いになるのですか? もしや自らへの戒めのためなのでありますか」
「怨念は、人としての死によって未来を断たれ絶望の淵にて時を止めた。新たな変化など知ることなど望むべくもなく、セレスドゥが元へ向かうべきそれは、怨嗟の念の塊として残り、我の手によって災厄へと形を変えたのだ。怨念は過去のものだ。断ち切らねば、先へ進めぬ。それでも我は、あの者たちに代わり新たな世界を見届けることを望む」
「ヴォルスング様ッ!」
ファリドゥーンは、感激のあまり言葉を失う。
一方ルシルは、我について考えるのをやめ、夕食の献立について考えていた。