小さなころ、お屋敷街に住んでいた。
そのころ、大人になったらケーキ屋さんになるんだと言ったらしい。
だから母さんが、簡単なクッキーの作り方を教えてくれた。
クッキーをたくさん焼いて、父さんと母さん相手に、ケーキ屋さんゴッコをしたことを覚えている。
お屋敷街の家の窓から、広場が見えた。
広場があって、お店があって、いつも誰か歩いてる。
真ん中には池があって、鳥がひよこを連れてうろうろしてる。
雨の日は、色とりどりの傘で、花が咲いたよう。
街灯にてらされた、静かな夜の広場には、不思議な空気が満ちている。
そんなお屋敷街の街並みを眺めて暮らした。
父さんと母さんにとって、私は大事な箱入り娘。
大事に大事に、家の中に隠していた。
疫病神がいるならば、どうか見逃してくれますように。
どの家の親たちも、子どもたちを家に閉じ込め、ただ祈ることしかできなかった。
どうしてあの人たちのように、街を歩いちゃいけないの?
そう言って、私は母さんを困らせた。
母さんは、「あの人たちはニンゲンなの。私たちとは違うのよ」と、私を慰めた。
でも父さん、あの人テレビで見たことあるわ。私と同じベルーニよ。
父さんは、「あの方は特別強い方なのだ。それでもそのお祖母様は、病に倒れているのだよ」と、私に教えてくれた。
そうして私は、少しづつ聞き分けがよくなっていった。
防護服の軍人さんが、街を歩いている。
父さんや母さんも、仕事に行く時は防護服に着替えていった。
私は家で、甘いお菓子を焼いて待つ。
帰ってきたら母さんら、私のお菓子を褒めてくれる。
帰ってきたら父さんが、おいしい珈琲を入れてくれる。
防護服を着られるぐらい大きくなったら、私も街を一緒に歩こう。
そして広場で、ケーキを買おう。
母さんにねだったけど、ダメだって言われた街のケーキ。
ニンゲンの食べ物は、病気になるって、母さんは言った。
ケーキ屋さんになる夢は、気づかぬうちに忘れていた。
大人になるのを待ちもせず、病気は私をむしばんだ。
朝早く、ぶかぶかの防護服を着て、初めて街へ出た。
まだお店は開いてなくて、人通りもまるでない。
父さんが、夜明けの空に溶け込む辺境を見上げて言った。
都会へ引っ越し、あそこへ行くよ。
あそこで眠りながら、治療法が見つかるのを待つのだよ。
……父さんと、母さんと、別れて? 私寂しい、私恐い。父さんと母さんと一緒にいたい。
……父さんも母さんもだ。けれど、生き延びておくれ。大勢の人と一緒だから、我慢しておくれ。
甘い香りをふんわり漂わせながら、ケーキ屋さんが店を開けた。
もっともずっとケーキ屋さんだと思っていたその店は、パン屋さんではあったけれど。
そこで私は初めて、買い物をした。
列車の密閉された個室の中で、初めてニンゲンが焼いたパイを食べた。
悲しかったけど、おいしかった。
辺境のベッドはいっぱいで、都会でひたすら空きを待つ。
時を止めた人々は、退院することもなく、空きなど滅多になく、空きを待つ人は大勢いて、待ちきれず死んでいく。
たとえ辺境にたどりついても、どれほど眠ればいいのかわからない。だから眠る前に、自ら死を選ぶ人もいる。
新しい部屋には、私と母さんのための場所しかなく、軍人になった父さんは、滅多に帰ってこなかった。
窓から見える風景は、広場に噴水。ニンゲンに防護服の軍人さん。
けれどこの街の空は鈍く、雨の日に傘の花が咲くこともない。
父さんが教えてくれた辺境も、ビルのネオンにかき消される。
ドームにおおわれた街ならば、外に出られると思ったけれど、身体がそれを許さない。
いつしかカーテンを閉め切って、テレビを見る気になれもせず、ベッドにただ横たわる。
口にするのは少しの水と、頭痛薬と、吐き気止めと、栄養剤と、いろんな薬。
そんな私に母さんが、部屋の小さなオーブンで、甘いお菓子を焼いてくれた。
部屋に漂う甘い香り。
そして久しぶりに帰ってきた、父さんの笑顔。
けれどウトウトしている間に、父さんは仕事に戻ってしまう。
部屋には甘いお菓子と、そして珈琲の残り香。
ある日部屋が揺れ、枕元のグラスの水が、不思議なさざ波を描き出す。
それをぼんやり眺めていると、母さんはテレビをつけ、私を抱きしめた。
テレビの中の端正な顔立ちの青年は、世界は滅びるのだと、そう言った。
いつか私が行くはずの辺境で、目覚めるために眠る人々は、すでに亡い。
テレビが次々と、世界のあちこちを映していく。
この街の広場を、お屋敷街の広場を、そして見たこともないニンゲンの街や村を。
戦っている人々を。
軍人さんたちも、ニンゲンたちも、機械人形と戦っている。
いつかお屋敷街で見た、あの特別強いベルーニも、
いつもテレビに出ていた、あの髭のニンゲンも。
父さんも、どこかで戦っているんだろうか?
父さんは、無事だろうか?
やがて戦いは終わり、静寂が訪れる。
普段の生活が、ゆっくりと戻って来る。
御守りがあれば病気が治ると聞いたけど、御守りの数は少なくて、辺境のベッドのように、私の番は回って来ないのだと、そう思っていた。
けれど父さんが帰ってきた。
ニンゲンの友だちを連れて。
父さんの友だちは、私を抱きしめ、御守りをくれた。
御守りが、私と世界を、結びつけた。
私は今、ライラベルで学びながら、父さんと母さんの店を手伝っている。
店にはベルーニもニンゲンも等しくやってきて、父さんの入れた珈琲を飲み、母さんが焼いたお菓子を食べている。