その人がボクに手を伸ばしてきた時、ボクは恐れ、身を引いた。
薄く髭に覆われた頬はこけ、目の下に濃いくまを作り、髪はぼさぼさで、全身薄汚れていた。
ギラギラとした目を見開いて、ボクを見ていた。
そして、ゴブのように臭かった。
ボクは思わず後ずさりして、その手を逃れた。
村を抜け出し、春になっても出稼ぎから帰ってこない父さんを、一人で迎えに行く。
ARMだってちゃんと扱えるし、足にも自信があった。まえに父さんに連れて行ってもらった採掘場の入り口までの道のりだって、覚えている。
だからボクは、その思いつきに、わくわくした。
ボクが迎えにいけば、父さんは、ボクを見て驚くだろう。そして、危ないことをしたといって、ものすごく怒るだろう。
ボクを何発か殴るかもしれない。
母さんだって、無断で出かけたボクのことを、ひどく心配するに違いない。
そしてボクが父さんを連れ帰ったら、母さんは嬉しくてたまらないのに、すごく困った顔をして、父さんにボクのことを怒って欲しいって言うんだ。そして父さんは、ボクを怒る。何発か殴られるかもしれない。
けれど父さんは、内心ボクのことを誇らしく思うんだ。
あはは、ボクはなんてバカだったんだろう。
ボクは本気で、そう信じていた。
毎年、出稼ぎから帰ってきたばかりの父さんには、汗と油の匂いが染み付いている。
ボクはバケツを持って、池と家を往復して水を運ぶ。
母さんはたっぷりお湯を沸かし、大きなタライの中に父さんを子どもみたいに座らせて、ごしごし洗う。
父さんは、自分で洗うよって笑うけど、母さんはそうするのが好きだったし、父さんも嬉しそうだった。
山には食べ物と身体を動かす仕事がある。だから山から帰ってきた人は、村で冬を越すボクたちみたいに痩せたりしない。
胸も腕も筋肉ではりつめていて、ボクはそんなカッコいい父さんの身体を見るのが好きだった。
父さんの身体を洗う母さんも、嬉しそうだった。
それから父さんは、一冬分の髭を剃る。
ボクはその髭を拾って、鼻の下にはりつけて遊ぶ。
父さんがさっぱりしたら、母さんは料理に取り掛かる。
母さんがこの日のために取っておいた取って置きと、父さんが山から持ち帰ったお土産だ。
その間、ボクは父さんの荷物の片付けを手伝ったり、脱いだものをタライに放り込んで、足でふんずけ洗濯したりする。
その年は、春になっても出稼ぎの人たちみんな、ちっとも帰ってこなかった。
仕事や天気や雪の都合で遅れることはあったけれど、遅れすぎだ。
仕事の都合で遅れる時に来る便りもなかった。
毎日笑顔を作っていても、日増しに雪が消えていく山を眺める母さんの横顔が、日増しに暗くなっていく。
怪我や病気で、帰るのが遅れることもある。山で命を落として、帰ってこれない人もいる。けれど、みんながみんな、しかも便り一つなしになんて、ありえない。
だからボクは、父さんを迎えに出かけた。
父さんは怒るだろうし、母さんは心配するだろうけど、ボクは父さんを連れ帰ると決めていた。
仕事の都合で遅れるんなら、父さんの無事を確かめついでに、その知らせだけでも村へ持ち帰えろうと、決めていた。
なのにボクは、この人は誰だろう? って、思ったんだ。
どうして父さんの声で、ボクの名を叫んでいるんだろう? って。
目の前にいるその人が、父さんであることは、疑いようがなかったのに。
父さんは、ボクに向かって手を伸ばした。
ボクを捕まえて抱きしめようとしたのかもしれないし、突き飛ばそうとしたのかもしれない。
それはもう、今となっては、わからない。
ボクはその手から逃れようと、後ずさりしたんだと思う。
直前までボクがいた場所に、父さんがいて、そこに大きな石が落ちてきた。
ぐしゃりって、ボクの目の前で父さんが潰れた。
まるで生卵を落としたみたいに、あっけなく。
そして、光が消えた。
闇の中は、畑の土とは違う、砕けた石の匂いと金属の交じり合った臭いで、いっぱいになった。
耳の痛みと共に、人々の叫び声や石や金属がぶつかり合う音が、唐突に消えた。
けれどボクの叫び声だけは、頭の中いっぱいに響いていた。
闇と降り注ぐ土砂の中、ボクは父さんの、油と汗と血の匂いをたよりに、手探りで父さんを探し続ける。
たぶん……。
本当にそうだったのかどうかもわからない、幾度も繰り返し見る、『あの日』の夢の一つだ。
ボクは夢の中でさえ、繰り返し父さんの手から逃れ、父さんの手を取れないでいる。