会議にやってきた軍総司令官ファリドゥーンが、背中に背負った巨大な『憂鬱』の二文字は、情報局長ペルセフォネこと私の目に限らず、誰の目にもあきらかなこと。
となれば、ジョニー・アップルシードことディーン・スタークが、首を突っ込まないはずはない。
会議の休憩がはじまったとたん、ファリドゥーンにつめよって、私事ですからと口を閉ざそうとする彼から、こんな言葉をはき出させた。
「実は今朝、妻と初めて言い争いになりまして……」
ニンゲンよりもなお精神力が能力に直結するベルーニだもの。軍の最高責任者であるファリドゥーンの落ち込みは、個人の問題ではすまされない。
だから情報局局長であるこの私が、素知らぬふりをしながらも、会話に耳を澄ませておくのは、当然のこと。
ヴォルスングの時代から、四天王を統括する役目を果たしてきたファリドゥーンだけど、私事がウィークポイント。
ついでに言うなら、彼や自分の登用は、Ubやら粛正やらで上がいなくなったってこともあるけれど、ヴォルスングにとって御しやすい世間知らずが集められたことも、否定しない。
年長だけど学問一筋のエルヴィスや、楽しけりゃいいカルティケやも、いわば世間知らず。
私だって、情報をあやつるとはいえ経験が足らない。亡くなった姉ほどの域に達するには、もうしばらくかかるはず。
そもそもUbさえなければ平均寿命は軽く150を突破し200に迫るベルーニだから、20代なんて経験不足もいいところ。
もちろん歴史が、ジョニー・アップルシードが必要とされるような動乱の時代には、そんな年功序列が吹っ飛ぶことを、証明してる。
実際今ここにいる以上の人材もいない。
野にも山にも、天路歴程号にだって、超がつくような人はいる。けれど今この体制に加わって、地道に社会を動かす一員となれる者となれば、限られてくる。
ヴォルスング体制のころは、いろいろ上に隠れてやりたいこともあったから、中間管理職が甘いにこしたことはなかった。
けれど今は、ナイトバーンとのラブラブ生活を維持するために、現体制を維持したい。
となれば状況を把握して、支え合う必要もあるというもの。
ああ、なんて美しい、助け合いの精神に満ちたぬるま湯の世界。
……じゃなくて、子供のころからこのRYGSの坊ちゃんは、戦士としての才能は抜群にあったけれど、疑う事を知らなくて、馬鹿正直で融通がきかなくて、これで後々古狸が化かし合う政治の世界でやってけるのかしらと、子ども心に心配したぐらい。
軍人が政治に首を突っ込んでくるのはやっかいだけど、政治がまるで読めないんじゃ、命令通りに戦うゴーレムと変わらないもの。
正直、古狸にいいように使われて、使い潰されるのがオチだろうと、思ってた。
結局ヴォルスングが古狸を粛正して彼を利用したわけだけど、その後こんな展開になることまでは、私も予想すらできなかったわ。
ナイトバーンならともかくも、ポッとでのニンゲンが、ジョニー・アップルシードとして、世界を動かし始めるなんて、ね。
「初夫婦ゲンカか? なんでケンカになったんだ?」
「突然朝食時に、『納豆なんてニンゲンが食べるものじゃない』と、言われまして」
うわっ、思った以上にくだらない。
「ああ、あのベルーニだけが食べる、腐った豆か?」
「腐っているのではありません。発酵させているのです」
「さすがにあれは、オレだって喰えないよ」
……これがジョニー・アップルシードと、軍最高司令官の会話なんだから、平和っていいなって思うしかない。
ファリドゥーンは、適当にごまかせばいいのに、馬鹿丁寧に納豆の効用を説明し出してる。
ヴォルスングの時は、その御前にかしこまり、一言一言のやりとりが、薄氷を踏むような心地だった。
そういえばその彼も、今じゃRYGS邸で、毎朝納豆を食べているのかしら?
ベルーニだって納豆食べられない人は、いっぱいいるし、平気で食べるニンゲンもいる。私はいくら栄養があっても、他の選択肢があるなら、それを選ぶ。
「いえ、妻に食べろと強要したことはありません。ですが妻は、私が食べることも我慢ならないと。糸を引くのが気にくわない、ネバネバが気持ち悪い、そして何より臭いが嫌だと。
結婚前から毎朝ずっと朝食の一品だったのですが、今朝は食卓になかったため、忘れたのかと自分で冷蔵庫から取り出したところ、突然妻が怒りだし……」
そろそろ口出ししようかしら。
「納豆を食べたその口でキスされたくない、とか言われたわけ?」
ビンゴ。見事なゆでだこのできあがり。
「なぜわかるのだ?! ペルセフォネ」
「私だって、納豆臭い男とキスなんかしたくないもの」
「だが、私とて朝食後にちゃんと歯は磨いている!」
どこのお子様だこの軍人は。
「オレはよく歯磨き忘れて、レベッカに怒られるけどな」
正真正銘のお子様だこのジョニー・アップルシードは。
「朝食後に彼女とキスする?」
「それはないけど」
「なら、いいんじゃない? キスする相手が出来てからでも」
「いや、オレ納豆喰わないから」
納豆はいいから、歯磨きしろ。
「とにかく、ファリドゥーン。あなた納豆やめなさい。そして帰ったら、プレゼントでも渡しながら、今朝のことを謝るのね」
「なぜだ。納豆の何がいけないのだ。昨日までは当たり前に食べていたというのに。
それに私は悪くない。なぜプレゼントまで用意して、妻にあやまらなければならないのだ」
立場の強い方が、とりあえず頭を下げて置くのが夫婦円満の秘訣だって、誰からも……教わるわけないわよね。
「臭うしネバネバだから。
それに妊婦は情緒不安定で理不尽で、十分いたわるべきものよ」
ファリドゥーンが動きだすまで、私とディーンの二人で、彼をじっと見守った。
「は?」
長い間の後で、彼は間の抜けた顔で、間の抜けた声を上げる。
「つわりじゃないの? って言ってるの。
つわりで、知覚が過敏になる人は、少なくないわ。それこそ納豆の臭いが我慢できないぐらいに」
「おめでとうファリドゥーン!」
まだ状況を飲み込めず、おたおたしはじめたファリドゥーンに、ディーンが満面の笑みを向ける。
けど、彼がショックから抜け出したら、舞い上がるのは目に見えていたから、少し釘を刺しておくことにした。
「いいえ、おめでとうは、まだ早いわ。
そうとは限らないんだし、彼女もまだ気づいてないかもしれない。
それに、問題なく生まれ育つ確率は、あなたたちが思っているほど高くないの。
ハーフとなれば、特にね」
事態を飲み込み、舞い上がりかけたファリドゥーンは、真っ青になる。
本当にわかりやすい。
「わわわわわ私はどうしたらッ」
知るもんですか。
「まず、落ち着くことね。あなたがうろたえたら、ますます彼女の負担になるだけよ。
つわりだなんて、私の思い込みに過ぎないかもしれないんだし」
……両手を広げて、なんか数え始めたわよ、この軍人は。
「つわりは着床で受精から約一週間後だっただろうか?」
言いたいことはわかるけど、混乱のきわみ。
けど一応勉強はしてるみたい。
そして心当たりありまくり、って顔。
ディーンの方は、きょとんとしている。
「そんなとこかしら? ともかく先走らず、まだ人にも話さない方がいいわ。
何をするにしても、彼女の意志を尊重することね。たとえ今回は、そうじゃなかったとしても」
ファリドゥーンは、嬉しそうな顔でうなずいたけど、妊娠だって決めてる様子。
「そうとは限らないし、そうであっても子どもを産むのは彼女であって、あなたじゃないのよ」
うんうんとうなずいているけど、やっぱり全然人の話を聞いてない。
そこで休憩時間は終わり。残りの会議の間彼の心はここにあらず。そして終わったとたん、すっとんで帰っていった。
一方私は、その直後から彼女の懐妊の噂をもみ消すために、奔走しなければならなかったわ。
こんなことならRYGS邸まで、彼について行けばよかったわね。
彼、帰り際に、スーパーのレモンを買い占めていったのよ。
デレッとした笑みを、あたりかまわず晒しながら、カゴいっぱいにレモン詰め込んでレジに並ぶ、軍最高司令官。
ここはトゥエールビットじゃないんだから、人を使え人を!
妊婦がレモンを欲しがるとは限らないのに、なにベタなことやってるんだか。
……もし私が妊娠したら、ナイトバーンははタバコを止めてくれるかしら? ね。