(C)hosoe hiromi
◆WA5 >  ◆短編一覧

ルシルの反乱

 会議にやってきた軍総司令官ファリドゥーンが、背中に背負った巨大な『憂鬱』の二文字は、情報局長ペルセフォネこと私の目に限らず、誰の目にもあきらかなこと。

 となれば、ジョニー・アップルシードことディーン・スタークが、首を突っ込まないはずはない。
 会議の休憩がはじまったとたん、ファリドゥーンにつめよって、私事ですからと口を閉ざそうとする彼から、こんな言葉をはき出させた。

「実は今朝、妻と初めて言い争いになりまして……」

 ニンゲンよりもなお精神力が能力に直結するベルーニだもの。軍の最高責任者であるファリドゥーンの落ち込みは、個人の問題ではすまされない。
 だから情報局局長であるこの私が、素知らぬふりをしながらも、会話に耳を澄ませておくのは、当然のこと。

 ヴォルスングの時代から、四天王を統括する役目を果たしてきたファリドゥーンだけど、私事がウィークポイント。

 ついでに言うなら、彼や自分の登用は、Ubやら粛正やらで上がいなくなったってこともあるけれど、ヴォルスングにとって御しやすい世間知らずが集められたことも、否定しない。

 年長だけど学問一筋のエルヴィスや、楽しけりゃいいカルティケやも、いわば世間知らず。
 私だって、情報をあやつるとはいえ経験が足らない。亡くなった姉ほどの域に達するには、もうしばらくかかるはず。

 そもそもUbさえなければ平均寿命は軽く150を突破し200に迫るベルーニだから、20代なんて経験不足もいいところ。
 もちろん歴史が、ジョニー・アップルシードが必要とされるような動乱の時代には、そんな年功序列が吹っ飛ぶことを、証明してる。
 実際今ここにいる以上の人材もいない。
 野にも山にも、天路歴程号にだって、超がつくような人はいる。けれど今この体制に加わって、地道に社会を動かす一員となれる者となれば、限られてくる。

 ヴォルスング体制のころは、いろいろ上に隠れてやりたいこともあったから、中間管理職が甘いにこしたことはなかった。
 けれど今は、ナイトバーンとのラブラブ生活を維持するために、現体制を維持したい。
 となれば状況を把握して、支え合う必要もあるというもの。
 ああ、なんて美しい、助け合いの精神に満ちたぬるま湯の世界。

 ……じゃなくて、子供のころからこのRYGSの坊ちゃんは、戦士としての才能は抜群にあったけれど、疑う事を知らなくて、馬鹿正直で融通がきかなくて、これで後々古狸が化かし合う政治の世界でやってけるのかしらと、子ども心に心配したぐらい。
 軍人が政治に首を突っ込んでくるのはやっかいだけど、政治がまるで読めないんじゃ、命令通りに戦うゴーレムと変わらないもの。
 正直、古狸にいいように使われて、使い潰されるのがオチだろうと、思ってた。
 結局ヴォルスングが古狸を粛正して彼を利用したわけだけど、その後こんな展開になることまでは、私も予想すらできなかったわ。

 ナイトバーンならともかくも、ポッとでのニンゲンが、ジョニー・アップルシードとして、世界を動かし始めるなんて、ね。

「初夫婦ゲンカか? なんでケンカになったんだ?」

「突然朝食時に、『納豆なんてニンゲンが食べるものじゃない』と、言われまして」

 うわっ、思った以上にくだらない。

「ああ、あのベルーニだけが食べる、腐った豆か?」

「腐っているのではありません。発酵させているのです」

「さすがにあれは、オレだって喰えないよ」

 ……これがジョニー・アップルシードと、軍最高司令官の会話なんだから、平和っていいなって思うしかない。

 ファリドゥーンは、適当にごまかせばいいのに、馬鹿丁寧に納豆の効用を説明し出してる。

 ヴォルスングの時は、その御前にかしこまり、一言一言のやりとりが、薄氷を踏むような心地だった。
 そういえばその彼も、今じゃRYGS邸で、毎朝納豆を食べているのかしら?
 ベルーニだって納豆食べられない人は、いっぱいいるし、平気で食べるニンゲンもいる。私はいくら栄養があっても、他の選択肢があるなら、それを選ぶ。

「いえ、妻に食べろと強要したことはありません。ですが妻は、私が食べることも我慢ならないと。糸を引くのが気にくわない、ネバネバが気持ち悪い、そして何より臭いが嫌だと。
 結婚前から毎朝ずっと朝食の一品だったのですが、今朝は食卓になかったため、忘れたのかと自分で冷蔵庫から取り出したところ、突然妻が怒りだし……」

 そろそろ口出ししようかしら。

「納豆を食べたその口でキスされたくない、とか言われたわけ?」

 ビンゴ。見事なゆでだこのできあがり。

「なぜわかるのだ?! ペルセフォネ」

「私だって、納豆臭い男とキスなんかしたくないもの」

「だが、私とて朝食後にちゃんと歯は磨いている!」

 どこのお子様だこの軍人は。

「オレはよく歯磨き忘れて、レベッカに怒られるけどな」

 正真正銘のお子様だこのジョニー・アップルシードは。

「朝食後に彼女とキスする?」

「それはないけど」

「なら、いいんじゃない? キスする相手が出来てからでも」

「いや、オレ納豆喰わないから」

 納豆はいいから、歯磨きしろ。

「とにかく、ファリドゥーン。あなた納豆やめなさい。そして帰ったら、プレゼントでも渡しながら、今朝のことを謝るのね」

「なぜだ。納豆の何がいけないのだ。昨日までは当たり前に食べていたというのに。
 それに私は悪くない。なぜプレゼントまで用意して、妻にあやまらなければならないのだ」

 立場の強い方が、とりあえず頭を下げて置くのが夫婦円満の秘訣だって、誰からも……教わるわけないわよね。

「臭うしネバネバだから。
 それに妊婦は情緒不安定で理不尽で、十分いたわるべきものよ」

 ファリドゥーンが動きだすまで、私とディーンの二人で、彼をじっと見守った。

「は?」

 長い間の後で、彼は間の抜けた顔で、間の抜けた声を上げる。

「つわりじゃないの? って言ってるの。
 つわりで、知覚が過敏になる人は、少なくないわ。それこそ納豆の臭いが我慢できないぐらいに」

「おめでとうファリドゥーン!」

 まだ状況を飲み込めず、おたおたしはじめたファリドゥーンに、ディーンが満面の笑みを向ける。
 けど、彼がショックから抜け出したら、舞い上がるのは目に見えていたから、少し釘を刺しておくことにした。

「いいえ、おめでとうは、まだ早いわ。
 そうとは限らないんだし、彼女もまだ気づいてないかもしれない。
 それに、問題なく生まれ育つ確率は、あなたたちが思っているほど高くないの。
 ハーフとなれば、特にね」

 事態を飲み込み、舞い上がりかけたファリドゥーンは、真っ青になる。
 本当にわかりやすい。

「わわわわわ私はどうしたらッ」

 知るもんですか。

「まず、落ち着くことね。あなたがうろたえたら、ますます彼女の負担になるだけよ。
 つわりだなんて、私の思い込みに過ぎないかもしれないんだし」

 ……両手を広げて、なんか数え始めたわよ、この軍人は。

「つわりは着床で受精から約一週間後だっただろうか?」

 言いたいことはわかるけど、混乱のきわみ。
 けど一応勉強はしてるみたい。
 そして心当たりありまくり、って顔。
 ディーンの方は、きょとんとしている。

「そんなとこかしら? ともかく先走らず、まだ人にも話さない方がいいわ。
 何をするにしても、彼女の意志を尊重することね。たとえ今回は、そうじゃなかったとしても」

 ファリドゥーンは、嬉しそうな顔でうなずいたけど、妊娠だって決めてる様子。

「そうとは限らないし、そうであっても子どもを産むのは彼女であって、あなたじゃないのよ」

 うんうんとうなずいているけど、やっぱり全然人の話を聞いてない。

 そこで休憩時間は終わり。残りの会議の間彼の心はここにあらず。そして終わったとたん、すっとんで帰っていった。
 一方私は、その直後から彼女の懐妊の噂をもみ消すために、奔走しなければならなかったわ。

 こんなことならRYGS邸まで、彼について行けばよかったわね。
 彼、帰り際に、スーパーのレモンを買い占めていったのよ。
 デレッとした笑みを、あたりかまわず晒しながら、カゴいっぱいにレモン詰め込んでレジに並ぶ、軍最高司令官。
 ここはトゥエールビットじゃないんだから、人を使え人を!

 妊婦がレモンを欲しがるとは限らないのに、なにベタなことやってるんだか。

 ……もし私が妊娠したら、ナイトバーンははタバコを止めてくれるかしら? ね。

2008.6.14 ◆短編一覧