漆黒の宇宙を彩る星々。それはバーソロミューが目にできる、唯一の大自然だ。
その星々の中に、バーソロミューが産まれ育った宇宙船群の一部を、見ることができる。
船はとてつもない速度で宇宙を突き進んでいるはずだが、どんなに目をこらしても、その動きを実感することなどできはしない。
ひときわ青く輝く星がある。
母なる惑星、ファルガイアの主星だ。
ずっとずっと、バーソロミューが生まれる前から、気が遠くなるほど長い年月、船はファルガイアを目指して宇宙を翔け続けている。
その年や月もまた、ファルガイア上から見た太陽と月を基準にしている。その一年の移り変わりや、月のめぐりを、まもなくバーソロミューは見ることができるはずだ。
ただし、とてつもない宇宙の尺度では、まもなくといってもその時間の半分もしないうちに、バーソロミューの少年時代は終わりを告げる。
到着予定は、三十年以上先なのだ。
それでも船は、十分ファルガイアに近づいている。多くの、一生を船ですごした過去の人々のことを考えて、バーソロミューはこの時代に生まれた幸運に感謝する。
宇宙は星々の光に満ち溢れている。それでもなお暗く、希薄である。宇宙の広さに比べて人はあまりにも小さく、宇宙が刻む時と比べれば、人の一生は刹那の輝きにすぎない。
この気の遠くなるような時間を生き延びるため、船に貯えられた資源は極限まで使いまわされている。
それでもわずかずつ消耗し、補充のために、まれにどこかの星に立ち寄ることもある。けれどその最後の機会さえ、バーソロミューが生まれるずっと前のことだ。
船の資源はすでに消耗しきり、人々の生活は苦しくなる一方だ。
船はファルガイアに向けて、矢のように突き進んでいる。寄る辺もないが、わずかな道草であろうとも、それはバーソロミューが生きている間のファルガイア到達が、不可能になることを意味している。
そしてもし、たとえ道草の機会に恵まれてなお、目前に広がるのはロクスソルスの外壁よりなお荒涼とした岩の塊、あるいは踏みしめる大地すらないガスの塊。
命をはぐくみ、生命の存在を許す場所は、宇宙の中ではバケツの砂の中の一粒のビーズよりも、なお少ない。
その貴重な宝石めざし、ただそれだけを夢みながら、船は今も宇宙を翔け続けている。
バーソロミューは、宇宙にひときわ青く輝くファルガイアの主星を眺めて、一刻も早くその大地を踏みしめたいと、心より願う。
だが皮肉なことに、船は今、貯えた力の大半を、減速のために放出している。今のスピードを維持すれば、船はそれこそすぐに、ファルガイアに到達するだろう。しかしそのまま通り過ぎてしまう。
だからバーソロミューが生まれる前から、すでに減速をはじめている。まだファルガイアの主星は青く見える。だが年々その輝きは白くなり、やがて星ではなく、太陽と呼べる特別の輝きを、バーソロミューに見せてくれるはずだ。
太陽。熱く輝き、ファルガイアの大地に命を与えるもの。この船団を導く灯台。
もちろん近づいてしまえば、どの星も太陽ではあるはずなのだが、やはりファルガイアの太陽は、特別なのだ。
その太陽を想う時、バーソロミューは、その陽を受けて赤々と輝く林檎を夢想する。
バーソロミューは、いやバーソロミューにかぎらず、船の人々は誰一人として、本物の林檎を見たことがない。見たことがあり、食べたことがあるのは、培養層の赤い人工灯の下で合成されたものだけだ。
それとどう違うのかは、説明できない。
けれど伝説のジョニーが、その種を撒き人々の指標としたという林檎の木の実は、バーソロミューの中では、太陽そのものの命の塊だった。
バーソロミューにとってジョニー・アップルシードとは、太陽の光を一杯に受けて育ち輝く林檎の実であり、そして惑星上から朝晩にのみ見ることができるという赤い太陽そのものなのだ。
赤く燃える太陽は天頂で白く輝き、そしてまた赤く燃えながら地平へ姿を隠す。
記録の中でしか見たことのないその光景は、にもかかわらずバーソロミューの原体験として刻まれている。
バーソロミューは宇宙の中のひときわ明るい青い星を見ながら、星が熱く赤い林檎へと変貌する未来に思いをはせる。
バーソロミューには信じられないことなのだが、この帰還に否定的な者たちもいる。
ファルガイアの資源は、その太陽系全体を含めても、使い尽くされてしまっている。ファルガイアに降り立っても、もはや得るものは何もないと。大昔の文明がむさぼり、この船団が飛び立つときに、その残滓がかき集められた。
そして船が掬い取ったファルガイアのかすかな光は、星の生命力が今なお回復しておらず、また文明が放つざわめきも失っていることを、すでに示している。
なぜそのような絞り粕を目指さねばならないのか? 到達しても得られるのは終止符だけかもしれないのに、なぜ貴重なエネルギーを浪費しながら、その星を目指すのか?
そこにはまだ、踏みしめることができる大地があり、呼吸可能な大気があり、命をはぐくむ海があるからだ。
そして何よりも、ファルガイアこそが自分たちを生みだした、母なる星だからだ。
しかし否定的な者たちは、ファルガイアへの帰還のために、船団のほとんどの力を使い尽くすことを、危ぶんでいる。
しかしその計画が、もはや変更できない段階に達していることも、事実なのだ。だから否定的な者たちは、ならばファルガイアから、その星系のすべての絞り粕から、なおあらゆるものをかき集め、まだ資源として期待できる星を目指そうと、主張している。
現実には、それもまた危険な賭けだ。ファルガイアとその星系は使い尽くされている。これ以上となれば、星そのものを喰らい尽くさねば、次の星を目指して飛び立つことすらできないだろう。それは母なる星を失うことを意味し、そして次の星に受け入れられる保障はない。
ファルガイアの生命は、まだ失われたわけではないことは、わかっている。バーソロミューたちの遺伝子バンクにある以上に、生命の多様性を保っている。微生物、植物、動物。ありとあらゆる命がつくる生命の輪。ファルガイアの命の輪は、今だ廻り続けている。
そこにまだ、林檎はあるだろうか?
必ずある、とバーソロミューは信じることにする。
たとえなくても、船の遺伝子バンクから、太陽の輝きを受けて大地で育つ林檎を、再現することはできるはずだ。
その遺伝子もまた、太古のジョニー・アップルシードが船に託したものだ。けれど誰も、それを新天地に根付かせることが、できなかった。
ファルガイアから林檎が失われてしまったなら、再度その種を撒けばいい。ファルガイアで生まれた命なら、必ずやファルガイアには根付くだろう。
けれどやはりバーソロミューは、ファルガイアに昔のままの林檎が命を繋ぎ、残っていてくれたらと期待する。
それはまだ、ずっと先のことだ。
その夢をかなえるには、一生かかるかもしれない。
けれどバーソロミューは、心に決める。
いつか大地を踏みしめて、自分の背丈よりも大きな林檎の木に歩み寄り、その肌に手をかけて木に登り、風にざわめく葉につつまれて、太陽の輝きが詰まったその実に手をかけ、もぎとり、口に運び、体いっぱいに太陽を詰め込んで、光輝く太陽になるのだと。