氷の女王の方程式
トム・ゴドウィンの短編SF小説『冷たい方程式』のネタバレを含みます。まあ、超有名な話ではありますが、一応。
ディーンがチャックを伴ってテレポートした先は、行政府のあるライラベルでも、RYGS邸のあるトゥエールビットでも、カポブロンコでもなく、ハニースデイの入り口だった。
「あれ?」とチャックが首をひねっている間にも、ディーンは村には入らず、荒野に向かって歩き出す。
「チャック。ちょっと歩きながら話したい」
「いいよ。ひさしぶりだね。いや、キミと二人だけってのは、初めてかもしれないね」
最近、仕事がらみで、あるいは半ばサボって、行政府ビルのディーンのオフィスや、ギルドのチャックの部屋で会うことはある。
けれど長い旅の途中でさえ、ディーンとチャックだけで行動するということは、ほとんどなかった。
能力バランスの問題というよりも、チャックが仲間になった時点で、なにかとディーンと共に行動したがる仲間が揃っていて、その仲間たちが意識もせずにディーンの取り合いを始めると、チャックは身を引いてしまうせいだろう。
むしろディーンの方が、ゴーレムについて語り合いたい気分になったりしたときに、積極的にチャックを求めた。そしてそんな話で盛り上がっているときも、常に誰かが近くにいた。
しばらく無言で歩き続け、やがてディーンが口を開く。
「なあ、なんでチャックは、アヴリルのこと、オレより早く気づいたんだ?」
チャックは歩きながら、小さく肩をすくめた。
「たぶんボクは、キミたちの中で一番彼女との付き合いが浅く、そしてリリティアと呼ばれる彼女に対して、抵抗がなかったからだろうね」
「今のアヴリルは、リリティアなのか? オレ、ちゃんと過去から来たアヴリルと仲良くなって、リリティアにはさせなかったって、ずっと思ってたのに」
「一緒に世界を救う旅をしたアヴリルも、リリティアだったのさ。二人は同一人物だ。天路歴程号で意識を繋いだ時に見ただろ? ボクたちと旅をしたアヴリルの中に、ちゃんとリリティアがいた」
「そういやあのとき、アヴリル自身がリリティアになることを恐れてたのに、チャックはあんまり心配してなかったよな」
チャックは大きく両手を広げる。
「なにしろボクの彼女に対する第一印象は、リリティアであるアヴリルだし、そのリリティアにボクは命を助けられた。むしろ一緒に旅をするようになって、その時の印象とまるで違うおだやかな彼女に、驚いたほどさ」
「アヴリルは、……過去へ戻ったアヴリルは、過去からやってきたアヴリルを、リリティアにさせないようにって……」
ディーンが言葉を失うと、チャックは口元に手を当てて考え込む。
「ディーン。『冷たい方程式』っていう話を知ってるかい?」
「知らない」
「じゃあ聞いてくれ。宇宙時代のベルーニの話のようなんだけど、アヴリルが生まれた古代文明のさらに昔、人が宇宙に出るまえに書かれたフィクションだ。確かこんな話だったと思う。
ある星を調査していた6人が、疫病で倒れたんだ。けれど運良く近くを宇宙船が通りかかった。猛スピードで動いている宇宙船は急には止まれない。けれど小型艇を向かわせることがぎりぎり可能だったから、そうすることにした。
母船を離れた小型艇に、どんどん先へ進んでしまう母船に戻る方法はない。小型艇のパイロットは置き去りさ。けれど星の6人の命がかかってるんだ。
小型艇は、一人のパイロットと薬を乗せて出発した。燃料は星に着陸する分ギリギリしかない。余分なものは一切積むことができないし、失敗もできない。
ところが、小型艇が発進してから密航者が一人いることが判明した。星の6人の中にお兄さんがいて、どうしても会いたくて、小型艇の事情なんか知らずに、もぐりこんじゃったのさ。
女の子の重量分、燃料が足らなくなる。代わりに捨てられるような積荷はない。女の子を船から放り出さなければ、もちろん放り出されたら死んじゃうわけだけど、そうしないと小型艇は墜落する。小型艇を操縦できるのはパイロットだけだから、女の子だけ残るという選択肢もない。小型艇が墜落したら、パイロットも女の子も、星の6人も死ぬしかない。母船や他の星に助けを求めたって、遠すぎて間に合わないことだけは、はっきりしてる。
ディーン。キミがパイロットならどうする?」
「もちろん、自分も女の子も星の人々も助ける方法を考える。何かあるはずだ。あきらめなければ……」
ディーンは、荒野の果てをにらみつけ拳を握りしめているが、チャックはへらへらと笑っている。
「当然、そうだろうね。けれどこれはフィクションで、死ななければならない女の子と、女の子を殺さなければならないパイロットの、心情を書いた話なんだよ。そういう状況でさえあれば、舞台は何でもいい。この状況で助けられる方法を思いついたなら、状況を書き換えてそれを無効にするだけだ。
だから全員を助ける方法はない。女の子が死ななければ、みんな死ぬ。ただそれだけ。登場人物に悪人はいない。悪意もない。むしろ善良な人たちばかりで、その人々の前に立ちはだかっているのは、動かしようのない理(ことわり)だけさ。だから『冷たい方程式』っていうタイトルなんだね」
「そんなのってッ!」
「だから、トム・ゴドウィンって人が書いたフィクションだって。それに同じ状況でも、密航者が善良な女の子じゃなく悪意をもった男で、パイロットを殺せば結局着陸できずに死ぬのに、殺されてなるものか、いやどうせ死ぬなら一蓮托生とばかりに、パイロットを殺そうと襲ってきたらどうだい? ついでに星で薬を待っているのが数千人だったりしてさ。パイロットはその悪漢を倒して船から放り出し、無事薬を星に届けたなら、普通のヒーロー物語のいっちょあがりだ。
だけど基本構造は、まるで変っちゃいない。パイロットがリリティアとして行動できなければ、みんな死ぬ」
チャックは言葉を切って、ディーンを見つめる。
「善良なパイロットでも、罪のない女の子を殺さなければならない。そうしなければ、女の子を含む8人全員が死ぬだけだ。
状況によってパイロットは、リリティアにならなければ、ならないんだ。むしろ善良だけど女の子を放り出すことを躊躇して全滅するパイロットよりも、冷酷に事を行い被害を最小限に抑える利己主義的なパイロットの方が、マシってことになる。
もちろん、冷酷非道な行いが出来ず、泣きながらみんなを巻き込んで心中するパイロットの方が、友だちとしては好ましいかもしれない。
ボクは、その時冷酷になったとしても、パイロットを責める気にもなれないし、嫌いにもなれないよ。
けれどそれは、この話がフィクションにすぎないからで、その女の子が実在する大切な人だったら、そのパイロットにあたる人に、他に方法はなかったのかと、怒りを向けるかもしれないけどね」
黙り込んでしまったディーンの隣で、チャックは話し続ける。
「ボクも最初は、一緒に旅をした彼女を失ったと、そう思った。見知らぬ人になってしまったんじゃないか? って。
けれど彼女は、最初から見ず知らずのボクの命を助けてくれた。キミみたいに、一目でボクを気に入ってくれたわけじゃないんだ。
もちろん、彼女は自覚がなくとも、ループの記憶があって、そうしたのかもしれない。ボクがいずれ仲間になるとか、あそこでああしないと、もっと大変なことになるとか。
あるいは、キミと交わした約束を破ったベルーニに対する怒りだったのかもしれない。
ともかく彼女は、あのベルーニを恐れさせ、ボクの命を救ってくれた」
チャックはディーンを見てニッコリ笑うが、ディーンは黙り込んで、まっすぐ前をにらんだままだ。
「彼女は、ベルーニ兵を恐れさせただけなんだよ。
古代文明時代、確かに彼女は、ボクたちの祖先である古代穏健派を滅ぼすことも厭わない氷の女王だと、恐れられていた。けれど実際ボクたちは今ここにいる。古代穏健派は滅ぼされたりしなかった。
けどボクはこうも思う。そうしなければ全滅するなら、彼女は誰かを犠牲にしただろうって。たとえそれを誰かになじられても、嫌われても、リリティアと呼ばれても、そうしただろうってね。
そして、フィクションの中のパイロットにとって、女の子を殺さなければならない状況が、ちっとも喜ばしいことじゃないように、アヴリルにとってもそうだったんじゃないかな? けれどそうしなければならない立場にあった。
過去から来たアヴリルも、ボクたちと旅をしたアヴリルも、必要に迫られればリリティアになる。同一人物だよ。別人格があるわけじゃない。
だから過去から来たアヴリルをリリティアにしないっていうのは、ボクにとっては、彼女をそういう状況に追い込まないってことなのさ。
彼女であれ、誰であれね。そのために、最大限できることはしておく。けれどそういう状況は、ゼロにはならないんだ」
ディーンは黙り続けたが、チャックも話し終えたのか、口を閉ざす。
しばらく歩いてから、ディーンはぽつりと呟いた。
「アヴリルは、アヴリルなんだな」
「ボクには、そう見える」
「で、彼女であれ誰であれの誰って、オレのことなんだな」
チャックはただ、両手を広げる。
「オレはこのファルガイアのパイロットで、オレも、いつかそういう状況に陥ったら、つらい判断をしなきゃいけないんだ。ジョニー・アップルシードとして」
「キミは、最後の最後まであきらめず、最善を探る。だからボクはキミに任せられる。
たくさんの人が、キミはあきらめないから、何だってできると信じている。だから、多くの人がキミに希望を見出し、ついていく。ボクもその一人だ。
ボクはそんなキミを、精一杯この手で護るよ。
そういう状況になったら、キミに代わって、まずボクが手を汚す」
ずっと前ばかりにらみつけるように見ていたディーンが、驚いて隣を歩くチャックを見る。
チャックはそんなディーンに、ニッと笑みを返す。
「頼りないかもしれないけど、ボクはそうすると決めている」
「何言ってるんだよチャック。オレには、最後の決断ができないと思ってるのか?」
「いいや、キミはやるさ。最後の最後まで粘った上で、誰よりも多くの危機的状況を乗り越える」
「なら、オレの責任をかぶる気か?」
「キミにはその価値があるんだ。キミは船にたった一人のパイロットじゃないってことさ。あの小型艇に、パイロットの他に正規の乗員としてボク乗っていたら、別の選択肢も出てくるってわけさ。女の子を残し、ボクがいなくなるとか、ボクも必要だからその船に乗っているなら、ボクが女の子を放り出すとか。
危機は一回限りじゃない。キミの方がボクよりずっと、危機を乗り越える資質に恵まれてるんだ」
「できんのかよ。チャック、オレより気が弱いじゃん」
ディーンは不機嫌そうに、力なくつぶやいた。
チャックは、むしろご機嫌だ。
「もちろんボクだって、そんなことしたくないから、そんな状況が起きないよう、事前に頑張らせてもらうのさ。たとえば出発前に、密航者がいないか充分にチェックするとかさ。その上でダメだったら」
「チャックがリリティアになるのかよ」
「いや、ボクのことは疫病神と呼んでくれ」
ディーンはチャックの、胸を張ってのその一言で、どっと疲れたようだった。そのままたらたらと歩き、そしてまた口を開く。
「オレ、そういう考え方、絶対に認めないからな」
「ボクもあんまり、好きじゃない」
ふたたび重苦しい沈黙の時が、しばし流れる。
先にそれに耐えられなくなったのは、ディーンらしい。
「その冷たい方程式って話、本当にパイロットが女の子を放り出して終わるのか?」
チャックは片方の眉をあげて、ちらりと横目でディーンを見る。
「それを確かめたいなら、自分で読んでみたらどうだい? いろんな人の短編集で、どれも面白いよ。ボクのお勧めは、アイザック・アシモフの『信念』って話だね」
「それも『冷たい方程式』みたいな、厳しい話なのか?」
「いいや。動くはずない理(ことわり)なんかおかまいなしに、突然体がふわふわと浮かび上がっちゃった科学者が、こんな事があるはずがない! って、うろたえまくる話さ」
そう言ってチャックはディーンに、ニッと笑って指を振った。