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ワイルドアームズ5

グレッグとディーン

グレッグにとって、なぜディーンが息子なのか?

 グレッグは、パーティの父親役であり30過ぎているにもかかわらず、青臭い。と、勝手に思っている。

 あの世界の中でも、ニンゲンにとって暮らしやすいゴウノンで、さほど社会に対して疑問も持たずに大人になって、ごく普通の幸せな家庭を築いていた。

 その経済的基盤は、ベルーニが酒を評価し、買ってくれるからこそだ。それなりの優遇もされていたらしい。

 酒造りの腕でベルーニに認められる、その味でベルーニを唸らせることが、ゴウノンの、そしてグレッグの誇りではなかっただろう。

 それがある日突然、ゴーレムの左腕を持ったベルーニの男によってぶち壊された。

 意識すらせず信じていたものが、30過ぎてから一瞬で無に帰し、疑いもしなかった足元が崩れさった。

 で、ベルーニなんて信じられん、ゴーレムなんて連中が威張るための見得にすぎん、とひねくれた。

 状況からして仕方ないとはいえ、このあたりが、何を今更と青臭い。

 隠れ里で育ち、話は聞いたことはあっても、ベルーニと関わってこなかったディーンやレベッカなら、それも当然だろう。

 けれど、ゴウノンより厳しい状況に置かれていたキャロルやチャックと比べたら、やはり何を今更だ。

 キャロルやチャックにとっては、このベルーニ支配という状況は、当然になり過ぎてしまっている。

 ベルーニが気まぐれにニンゲンの命を奪う。

 キャロルにとっても、チャックにとっても、それは今更驚くべき話ではない。

 むしろキャロルを脅かしたのは、彼女の最たる保護者でなければならなかったはずの、ニンゲンの両親だ。そしてチャックにとって人の命を理不尽に奪うのは、やはりニンゲンの自身なのだ。

 いずれも、ニンゲンかベルーニかは、関係ない。

 二人共、ベルーニ社会がニンゲンを抑圧していることは、よく知っている。そのために苦しみ、命を落とす人々がいることも。

 キャロルやチャックが暮らしていた地方こそが、抑圧がもっとも厳しかった。だからそれは、当然のことになっていた。

 もちろんそれに対して、憤りがないわけではないだろう。悲しみも感じるだろう。

 けれどその上で、それは厳しい現実の一つでしかなかったのだ。

 穏やかで豊かなゴウノンで成人し、家庭を持っていたグレッグが知らない現実が、そこにある。

 聞いてはいたとしても、現実問題として、自分の問題として、捉えていなかった。

 ベルーニは、この世界の支配者だ。だが酒造郷というゴウノンの特質が、ベルーニを魅了してやまぬジョニー・アップルシードを作り出すニンゲンの技術が、グレッグたちゴウノンの人々をベルーニたちから守り、生活を支え、そして誇りとなっていたはずだ。

 だがカルティケヤが、理由もなく、それを根こそぎ否定し、破壊した。

 もしグレッグの妻子を奪ったのが自然災害であれば、あるいはニンゲンの渡り鳥であれば、ベルーニでさえなければ、その後の展開は違っていたはずだ。

 ゴウノンの人々は、そしてジョセフは、グレッグの『左腕がゴーレムの男』の話を信じなかった。

 それはまず第一に、『よき夫よき父親であったはずのグレッグが、突然錯乱して妻子を殺した』という話の方が、『突然左腕がゴーレムの男が現れ、理由もなく妻と子を殺した』よりも、まだしもありえる、と考えたからだろう。

 そして第二に、左腕がゴーレムという条件が、もしその狂人が実在するならば、それはニンゲンの渡り鳥などではなく、ベルーニであることを指し示していたからだ。

 左腕がゴーレム、という話さえなければ、狂った渡り鳥の凶行という話で、まとまっていたかもしれない。
 グレッグが手にしていたARMが、どこから現れたのか? という疑問を持つ者もいただろう。
 よく見る暇もなく、グレッグと共に荒野へ消えたとはいえ、僅かの間に、それがニンゲンに配給される物にしては、少々大きすぎることに気づいた者もいたかもしれない。

 事実、後日ゴウノンに現れるハンターから、町の人々が、犯人がベルーニと知っていて、濡れ衣をグレッグに着せたのではないかと示唆するセリフを聞くことができる。

 いくらゴウノンが恵まれているとはいえ、時にベルーニは横暴であり、生死をも握り、逆らうことは許されないという現実は、ゴウノンの誰もが、知識としては、知っていた。

 それでも知識でしかなかったからこそ、その一人であるグレッグは、息子であるテッドに、無条件の正義という理想を語ったはずだ。

 もしこの父親が、ハニースデイの誰かであれば、そうできただろうか?
 善良であれとは教えるだろう。
 正義についても語るだろう。

 だが、ベルーニという現実や、反感をぶつけるだけの正義が災いをもたらすとも、教えるだろう。
 権力に逆らうな。それはハニースデイの人々だけでなく、一般的なニンゲンにとって、生活に密着した死活問題なのだ。

 ぬるま湯にひたっていたゴウノンの人々は、そしてグレッグは、この事件によって、それが幻想であることを突きつけられた。

 だからこそ、いやそんなはずはない、自分たちがベルーニに、そんな目に合わせられるはずがないと、ゴウノンの人々は何がなんでも『信じたかった』のではないだろうか?

 事件をグレッグのせいにして葬れば、今まで通りのベルーニに評価される現実を失わずにすむと。
 この世界を支配する、ベルーニの抑圧という厳しい現実から、逃れ続けられると。

 平和で豊かなゴウノン、ベルーニも認める酒造郷という、夢を見続けていられると。

 そしてただ一人、突如何もかも奪われて、厳しい現実を身を持って知ったグレッグは、そのぬくぬくとした幻想から飛び出した。

 信じていたものが、何一つ保障されることのない世界へ。

 こんなハズではなかったと。
 何もかもが間違っていると。

 そして、その元凶を左腕がゴーレムの男と定め、復讐に生きた。

 キャロルもチャックも、理不尽に苦しめられたとしても、誰もがグレッグのような生き方をするわけにはいかないと、知っている。

 曲がりなりにも今存在している社会の秩序を無視すれば、より大きな悲劇を生み出しかねない。

 それは、ゴウノンの人々が真相から目をそらしてでも、求めようとしたものと、さして変わりはしないだろう。

 けれどキャロルもチャックも、その現状に埋没せず、自ら単身我が身を状況から引き剥がしている。

 もしその必要がなかったならば、二人は共に、故郷で暮らし続けていたかもしれない。
 もしキャロルの両親が、最低限の優しさを備えていたなら、
 もしチャックが、自らが疫病神であることを、否定することができたなら、
 たとえ故郷を離れることになったとしても、単身飛び出す必要はなかっただろう。

 そしてなお、二人は厳しい現実の中で、現実に怯えながら生きてきた。

 キャロルは、他の人々が自らを害するのではないかと、
 チャックは、自らが他の人々を害するのではないかと、
 常に他の人々を意識しながら。
 そして、生きながらえた。

 生きる道を探し続けた。

 復讐だけを考え、復讐の後のことなど考えたことのなかったグレッグとは、そこが違う。

 失った時、復讐のみに生きることになるほど、妻と子を愛した男は、両親から愛されなかった子の目に、どう映っただろう? そして追っ手は、復讐にのみ生きる男の話を信じ、その経験に理解を示し、自分よりもつらいと言って、見逃した。

 キャロルやチャックのような存在は、グレッグがゴウノンを飛び出した後で知った厳しい現実の、その現実の中で生きる、まだしも生き延びただけ幸運な二例にすぎない。

 ベルーニが気まぐれにニンゲンを殺すなど、別に珍しくもないのが現実だ。
 正義を叫んで現実の前に立ちはだかれば、次に何が起きるのかを、キャロルもチャックも、そしてグレッグも知っている。

 だがグレッグは、テッドの命を奪ったそれを、認められない。
 妻と子を奪った相手に対する、怒りや憎しみさえ、認めようとしない人々も、同様だ。

 だからこそ、ベルーニの理不尽を受け入れるチャックやミラパルスの人々に対し、心を動かされることもない。

 チャックは、その現実を、好んでなどいない。だが、半ば受け入れている。だからこそ、その厳しい現実を打ち砕いたディーンに、その一端となったグレッグに、恩義すら感じている。

 隠れ里育ちのディーンは、ベルーニが支配する世界の現実を、知らなかった。

 テッドが、そうであったように。そしてグレッグが、そうであったように。

 グレッグは、無知で無垢なディーンたちと、世間の荒波に揉まれて来たキャロルやチャックの、中間に立っている。

 もちろん復讐に飛び出してからは、十分荒波に揉まれて来ただろう。だが、どんな荒波だろうと、しょっぱなの事件のショックと比べれば、小さいものだったはずだ。

 慢性的に、明日を家族と共に生きるために、今日を忍ぶ生活を、グレッグは知らない。

 ゴウノンを出てから見た現実は、ますます彼を懐疑的にしたものの、他の人々にまで、しっかりと目を向ける余裕など、まるでなかった。

 それまでに出会った、ゴウノンよりもずっと厳しい状況の中で生きてきた人々は、最悪を恐れて、厳しい現実を耐え忍び受け入れていた。

 その現実を受け入れられず、ただ復讐に生きているグレッグにとって、そうした現実を受け入れる人々もまた、受け入れがたい現実にすぎなかった。

 ベルーニに処刑されそうになってすら、全力で抵抗しようとしない、事なかれ主義のチャックなど、その最たるものなのだ。
(当時はまだ、チャックが背負ったものも知らず、また後日その根底にあるものを知ったわけだが、これがまた「自分は疫病神である」などという、「左腕がゴーレムの男」だとか、「ニンゲンの女の子を溺愛するベルーニの大男」だとか、「空から降ってきた巨大ゴーレムの左腕と、その手の中にいた女性」以上に、非現実的で斜め上なものだったわけだが、それはさておき。)

 そのグレッグの、現実を認めず闇雲に逆らう様が、ゴーレムや採掘場を破壊している様が、ひどく青臭いのだ。
 世の中が思い通りにならないことを知って、どうしたらいいのかわからず荒れ、手当たり次第八つ当たりしている青年のように。

 もちろん妻子を目の前で殺されてなお、分別を保てなど、望むつもりはない。
 だが、表に見えるものとは違う裏があると知って、それが全てになってしまっているように見える。

 ディーンたちと。いや、ディーンと出会うまでは。

 ゴウノンを出て2年。
 その2年の間に世間を廻り、現実を知り、変わるための機も熟していたのだろう。

 そして、ディーンと出会った。

 その世界の現実に、ディーンはまったく染まっていなかった。
 ひねくれたところのない真っ直ぐな視線で現実を見て、感じて、恐い物知らずで行動していた。
 カポブロンコもまた、ぬるま湯の小世界なのだ。

 だからこそグレッグには、ディーンが、ゴウノンで育ち、そして時を止めたテッドが成長した姿に見えたのではないだろうか?

 同時にそのテッドの姿は、かつての、ゴウノンの現実を疑いもしなかったグレッグ自身の姿でもある。

 だからこそグレッグは、ディーンを息子のように感じたのではないだろうか?